星野師「スピリチュアルな旅、愛への道」生涯学習講座より
クリスマスもせまってまいりました。構内のヒマラヤ杉も飾られ、美しい光を私たちに届けてくれます。クリスマスにちなんだ話をしながら今までのテーマを考えていきましょう。私たちの心の中にあるおそれは悪いいたずらをします。無条件の愛をテーマにしてきました。無条件の愛はすでにあなたのところにやってきています。他の人が困っているのを知ったとき、遠く離れていて見ていないことでも、何かを感じ、自分に引き受けてしまう。そういう感じ方ができる。それは、神様が作ってくださった私たちの本性が憐れみにあると、気配のように感じられる一瞬です。ユダヤ人哲学者エマニュエル・レヴィナス(1906-1995)は第2次世界大戦中、仏軍人として捕虜収容所に入れられ、ユダヤ人収容所でなかったため、親族で彼一人が生き残りました。親族がどういう状況に置かれたか戦争中は知らなかった。それにも関わらず、「わたしにはあの死んでいた同胞達、親族達、あらゆる人の死の責任が自分にあると感じた。」なぜ、自分が生き残ったのか。見つけ出せる理由は何もない。自分が命をいただいた。そういう状況の中で、彼の中に思索してではなく、被る様な形でわき上がってきた思いが「彼らの死に対して責任がある。生きてしまったことに対して負い目がある」でした。イエスを知らないといったペトロは,イエスの死に負い目があると感じました。負い目、一言で言うとそういう言葉です。生きなければならないという責任感が生じてきました。生前のイエスの元で愛を受けながら生きた,かわいがられ養成された、そのときと全く異質の生がわきあがってきたのです。十字架のイエスの死に対して責任がある、生きていかなきゃならないあの事件が起こる前と同じように生きることはできない。すべての人に恵みの雨や太陽を届ける神の愛を,地の果てまで届けるというのがペトロの責任のとり方でした。私にもイエスの死に責任があると感じる人がいます。2000年前の話、2000歳の人はいないのだから誰もその死に責任はなありません。。十字架につけろと叫んだわけではない。イエスという人に会ったことも話したこともないが,自分がその場にいたら十字架につけろと言うであろうと,うすうす気づいています。私たちにはそういう闇の部分があるのです。一つのことをはっきりさせて置かなくてはなりません。過失つまりあやまちと罪について[過失がないにもかかわらず、罪を自覚する人間]過失がない、徹底的にここです。私たちはイエスの死に対して何の過失もない、加担していない。2000年前に生きていないのだから。仏軍兵士捕虜収容所にいたレヴィナスはアウシュビッツ収容所に何も関わっていない。過失はないにもかかわらず、罪を自覚する、つまり存在論的に責任を取ろうとしている自分がいる、私たちの深い層にあらわれてくるのです。私たちがよく耳にする言葉、アイデンティティ、自己実現、自分らしさ、自分探し。これらは30年くらい前から女性の月刊誌ク○ワッサンなどの雑誌で盛んに使われた言葉です。それらの言葉と共に30年くらい前から心理学が身近になり盛んになってきました。過失がない自分.アイデンティティ-これがもしあるとすれば。自分の中にどんなにすばらしいものがあるのか。何を肯定しようとしてきたのか。この素晴らしいあなた、輝いている、いろいろな可能性があるのを外へひっぱりだす.それが本当のあなたでしょうか。もし自分のアイデンティティを自分で作ることができる、そうなら、自分一人で自分の中をみつけていくことができる。それが本当の自分でしょうか?たとえば自分の子どもを心理学の手法で見て、その子の人生の核となる部分が見えるでしょうか?ある出来事に出くわしたとき、あの角を曲がったとき何かが落ちていた。今まで体験しなかった何かを経験することで突然私があらわになることがあります。「過失がないにもかかわらず罪を自覚する」人間に対し、神は「それにもかかわらず許す神」であると、イエスは自分をあらわしました。罪を感じる必要はないとは言いません。許すとは罪を受け取ることです。人間の一番深い望みは何なのか。本当は一つのことを二つに分けて話すとひとつは,愛されていることだけを願っているようにみえるが、実は私の貧しいぼろぼろの愛を受け取ってもらえること二つめは過失がないにもかかわらず罪を自覚する人間は何をしてほしいか,罪をうけとってほしい.2番目だと罪深さというものを受け取ってもらえる、罪の自覚が愛に変わっていく1番目だと、こんな愛し方じゃ決して喜んでもらえないはずがない、それでもありがとうと、うけとってもらえる自分で探した自分の輝きではなくって、自分の功績に酔いしれるのではない。許されている体験はその人への愛として体験できるのですゆるしを求める人に神は愛を与えますクリスマス どんな人がでてくるでしょうヨセフは夢に。夢は自由にならない世界(本人の力を越えている)の象徴として扱われています。神様の意志を肯定しています。本人のもくろみを越えて、どういうメッセージを受け取ったかマリアを受け入れなさい。お腹の子は神の子であると。占星術の学者は星をみて拝みにきました。星を追いかけた、自分の頭で探り当てたのではなく、本人の力を越えた導きにより幼子イエスに出会い喜びにあふれたヘロデは調査ー自分の力です。教えると言ったのに教えない学者にいらいらし、2歳以下の男の子を皆殺しにするという暴挙にでました。ヨセフとマリアは夢のお告げでエジプトへ逃れ、夢により、また帰りました。そして良いものはでないといわれたナザレでひっそりと暮らしました。エリザベートは手伝いにマリア様が来るとは思っていなかった。驚き喜んで「あなたは女の中で祝福された方です…」羊飼いは安息日でも羊から離れられません。安息日も守れない、夜労働を休むこともできない、こうすれば神様に受け入れられるとされた律法を守れないさげすまれた人たちでした。自分の人生を思い通りにできないー自分探しができない?私たちのために救い主は生まれました羊飼いも自分を越えた大きなはからい、動きに中に自分を投入し、乳飲み子を捜しあてました。羊飼いは本人の力を越えて天使の声に導かれ、神様は私に祝福を下さったという体験をしたのです。ヨセフとマリアも自分の人生において、もくろんでいたことがあったでしょう。自分のもくろみ、計画ではなく、言われた通りを生きました。イエスというある種厄介者が介入、入ってきたのです。イエスという風がふいてきて,その風に吹かれて生きました。自分を見つけていくプロセスは自分ではなく、他者からの侵入にありました。 一方、ヘロデは自分の頭で全部考え結論をだした。自分を越える大きな力に動かされなかった。王としてのアイデンティティ、自分探しに成功しています。自分のみつけたアイデンティティにまったく疑いをいだきません。外からの影響を受けない。一歩も退くことができない。王という場所に何も入れることができない。自分以外を原因にして起こってくるささやかな出来事、他者との出会い。。縫い合わされた状態で風を入れることもふかすこともできない。彼は自分の世界を思い通りに生きている。自分の外の世界にどんなことがおきようと風がふきこめない。どんな人の愛も届かない。ぬいあわされた状態で、神さえ働きかけられないのです。これは私の問題だと、わきあがらされる何か。こうむる、つまり力でおしつけられた何かを受け取りながら生きてきたというような形で自分が何者であるか、自分が見えてくる。レヴィナスは自己実現、自己のユニークさ、唯一性、アイデンティティは外から来る。他者による選びと指命、のがれようがないと考えました。レヴィナスの場合、「他者」とはすでに生きていない、存在しないというカテゴリに整理されてしまう人たちでした。レヴィナスは存在のかなたから私たちは動かされていると述べました。クリスマスの聖劇には存在の彼方から動かされた人たちが登場します。私たちの本来的自分をあなたに指名してくるのは、存在のかなたからのうごめく、つかむことのできないものです。時計の中を見つめるために、分解という能力だけに頼るような「自分探しの旅」のつかれ。それをいやすためにイエスは、おん父に指名された者としてやってきて飼い葉桶の中に横たわっています。鉱物質の自分を作り上げる、ダイエットに励む女の子、キャリアウーマン。探り当てた自分は本当の自分でしょうか。それを現代という21世紀初めにクリスマスをむかえる私たちに見せようとしているのではないかと思います。ですから、もしかしたら自分はいったい何なのか、そんなに神経質になってみつけなくてもいいのかも知れません。あることに感動したり、影響を受けたり、ほほえんでくれたり、顔を曇らせたり…おそらく外から何か材料を持ってきて加工するのではなく、すでにあなたの中にあるのでしょう。飼い葉桶のイエスの中に十字架のイエスがおられたように。どんな風に自分の心が動いていくのかあなたが見つけ、示されたものに従って作り上げた自分。倫理的に高くもない、愛徳もない、こんな私もいたんだと感動するクリスマスの立役者は今日も語りかけてくれます。ーー教会の当番だったので、残念ながら星野師のミサにはあずかることができませんでした。星野師の講座をきいて思い浮かんだのが もずさんのメッセージ です