灯
秋の夕暮れ。空に漂うあかね雲。夏の匂いがほのかに残る9月の初旬。僕はある山のふもとで暮らしていた。小さな丘が至るところに突出している。その中の、ある丘の上に小さな家が建っていた。僕が帰るころには既にあたりは闇に染まっている。その中でポツンと浮かぶ灯の光。その灯を見ると僕は立ち止まってしまう。しばらく何も考えずにぼんやりとその灯を観続ける。その間に、僕を囲む芝生は草と草が擦れる僅かな音をのせてさざ波をたて、上空の星々は静かに光を降り注いぐ。ある日、いつものように僕がその丘の前を通りかかったとき、灯は消えていた。出掛けているのか、と思い特に気にはしなかったが、頭にはなにか妙なひっかかりが残った。それから数日経っても灯は燈らなかった。僕は日が経つにすれ何故か焦りを憶え、家に帰ってもその状態から抜け出す事が出来なかった。真夜中に何度も目を覚まし、その度に異常なほどの渇きを覚えた。冷蔵庫から水を取り出し一気に飲み干す。窓から見える空には、不気味なほど明るい光を放っている月がポッカリと浮かんでいた。死んだ魚が虚ろな目で僕を見る。一週間が経ったが、灯は燈らなかった。僕は一度その家の近くまで行ってみる事にした。仕事は相変わらず日常の延長線上にあったがその日は休む事にした。会社は何も言わなかった。電話を置くと、早速トートバッグに簡単な軽食を入れ、ポロシャツに着替えて、ボロボロのジーパンを穿いた。靴箱からコンバースのシンプルなデザインの靴を選び、汚れ防止のスプレーをかけた。鏡を見つめて最終チェックを繰り返す。外に出ると陽は既に高く上り、大きな入道雲を傘下におさめていた。僕は歩き始めた。いつもの灯を眺める場所に着いた。時計を見ると既に一時をまわっていた。すぐ近くにあった大きな平たい石に腰をかけて昼食をとった。陽の光を体で受けているために、石は暖かかった。朝早く起きて握ったおにぎりをむしゃむしゃと食べながら、こんなにのんびりするのはいつ以来だろうと考えた。毎日の決まりきった生活は僕から考える力や独創性を奪っていく。そしてそれを奪われていると感じる心さえもいつの間にか掠れていく。蚊が血を吸うように。色をつけすぎて真っ黒になってしまったキャンパスのようだ。しかし、だからと言って新しいキャンパスに絵を描くわけにはいかない。人間は一生のうちに一枚の絵しかを描ききる事は出来ないのだ。中には描ききれないまま死んでいくものも居るだろう。充分なほどの画材を持ち合わせるには血肉を争うほどの努力が要る。しかし結果、それが自らのキャンパスを描き切るための充分なほどの画材になるとは限らない。色を数千色持っていたところで使い方を間違えれば、何にも染まぬ黒になる。一色だけでも人生は描ける。いずれにせよ、キャンパスに色はつくのだ。一色だろうが千色だろうが真っ白なままのキャンパスでは生きてはいけない。僕は色をどのようにつけてきたのだろう。間違えずに筆をふるうことをができたのだろうか。いや、どのようにふるっても結果は同じなのだ。今の僕にはあの灯があるだけでいい。極めてどうでもいい話しだ。既に歩き始めて2時間は経過した。足の疲労もピークに達している。足が棒になるとはこのようなことだったのか、と思うと同時に勉強だけを重ねた学生時代を思い出す。勉強とは自らが結論を持っていく学問ではない。既に在る事を暗記するだけの記憶力検査である。やればできるのは当たり前だろう。既に中学の時に僕はそれをわかっていた。だから勉強をして大企業に入った。しかし、その時既に僕は真っ黒だった。目前に迫るナニモノカさえ感じる事はできない体になっていた。今でさえ僕は足の感覚がなくなることを察知できなかった。自分の体さえ把握できない。何故歩くのかさえわからない。灯を見たいがために歩いているのか。それは目標なのだろうか。目標とは?中間?終り?あるいは始まり?わからない。わからない事が多すぎる。僕に分かる事といえば、あの灯を僕が見たいという気持ちだけだ。夕陽がオレンジ色に僕のキャンパスを染める。僕は小さな家の前に立っていた。北欧の農村にあるような蔦が絡まったレンガ造りで、周りには様々な種類の花が植えてあったが暗いためぼんやりとしている。僕はガラス細工が嵌め込まれた木の扉をノックした。不思議と迷いはなかった。扉はとても美しかった。よく観ると、ガラス細工は魚を形作っていた。目のところには大きな赤いサファイヤが埋め込まれ、月の光を反射させている。その向こうでランプの光がちらちらと揺れた。僕は体勢を立て直すと、夜空の星を見上げた。扉は古い木々が擦れる甲高い音を立て、開いた。真っ赤なワンピースに灰色の毛糸のセーターを羽織ったショートカットの少女が立っていた。「何か御用ですか。」と彼女は言った。僕はなんて話せばいいか分からず、ポケットの煙草を取り出して火をつけてあたりを眺めるふりをした。ここに来るまでに何を話せばいいのかなんて全く考えていなかったのだ。「いいや、特に用は無いんだが。それにしても不思議な家に住んでいるね。ひとりで住んでるの。」「用は無いんですか。」と少女は僕の質問を無視してもう一度尋ねた。「いや、実はここのところこの家の灯がついてなかったからどうしたのか聞きたくなったんだ。」と、僕は答えた。少女は一瞬僅かに顔を変えたが、すぐに無表情な顔に戻った。「入って。」彼女は両手を両肩に乗せたまま僕を中に入れた。家の中は外観からは予想もつかないほど広かった。「そこに座ってて。」と少女はソファーを顎で指した。僕はソファーに座った。少女は木々を暖炉に押し入れ、飴細工のように丁寧にマッチで火をつけた。こぼれるような吐息で火を吹き消すと、廊下の奥の部屋に消えた。僕はぼんやりと部屋を眺めた。暖炉の上には大きな鹿の頭部の剥製が飾られ、壁には数枚写真が掛かっていた。その下にはチェストが並び、引き出しが所々開けっ放しになっていた。僕の前には平たいガラステーブルが置かれ、それを囲むようにソファーが位置していた。ソファーの間にはCDラックが置かれていた。僕の中には先ほどから既視感が駆け回っていた。暖炉からはパチパチと音が弾ける。少女はコーヒーカップを二つ持って、一つを僕の前に置き、自分は持ったままふらふらと周りを歩いた。コーヒーは、まさにコーヒーだった。僕にとって、体が棺にぴったりと嵌るようにまさにこれはコーヒーだった。「何故火を燈さなくなったんだ。」と僕は言った。「そんな気分なの。頃合だと思ったの。」と少女は言った。少女は一口コーヒーを飲むと暖炉の上に置いた。「随分と久し振り。この家に人が来るなんて。」「あの長い道のりをわざわざ歩いてくる人間なんてそうはいないと思うよ。草木が生い茂ってるから車もバイクも通れないしね。」と僕は言った。少女は部屋の角に焦点を合わせたまま、コーヒーを再び口にして僅かに笑った。僕ら二人はしばらく何も話さないまま木の焼ける音を聴いた。「外を見て。」「外。」僕は視線を少女から窓に移した。窓の向こうには闇しか見えない。「外に何かあるのか。」「よく見て。窓の近くで。」僕は仕方なくソファーから立ち上がり、窓の向こうを覗いた。そこにはもうあのなだらかな丘は無かった。アスファルトで固められたような灰色の地面が地平線まで続いていた。空の闇にはとてつもない大きさの太陽が数個浮かんでいる。虚構世界の虚無が辺りにひしめき合うように漂っている。「なんだこれは。」と僕は言った。「あなたよ。ここは。そしてこの家があなたの形而的空間なの。」と少女は言った。「そして、私はあなたの中にいるあなた。あなたは私の中にいる私。概観なんてどうだっていいの。観念的な世界はもうあなたには必要ないんじゃないかしら。」恐らく言葉を口から出したところでこの状況が変わるわけではない。僕は素直にこの空間を受け入れる事にした。「君がもし、僕の中に居る形而的存在なら、一体僕らは今どこにいるんだ。」「私の中のあなたの中の私の中のあなたの中の・・・。永遠に続くわ。内側も外側も表も裏も存在し得るし、存在し得ないのよ。あなたはどこにも存在するし、どこにも存在しない。」彼女はコーヒーを口にした。「やれやれ。」僕は窓から離れ、ソファーに座った。窓の淵には僅かに闇が蠢いている。「この家はどこにでも存在するんだね。世界中に。いや、宇宙にもか。」「そうよ。」と少女は言った。「世界中に丘はあるの。もちろん渋谷にだってニューヨークにだってパリにだってボストンにだって至るところに。でもね、家に来る人はいないわ。みんな既存の量のお金を回すので手一杯みたい。」「じゃないと生きていけない。」と僕は言った。「観念的な世界で絶対的な力を持つのは下らない偽善より資本や戦争なんだ。空間には何が起こるかわからないからみんな怖いんだ。だから判断基準を一定に保つために、既存の資本をぐるぐると回している。金が増えることなんてないのに。でもそれをしなければなにも出来ないんだ。」「そうかしら。あなたはこうして形而的な自分に出会えたのよ。私をよく見て。あなたは私さえ理解できてない。」と少女は言った。「あなたが形而的な存在になれば、あなたの中にある全てのものも形而的な存在になるの。」「ここは、くぼみなのか。」「くぼみはどこにでも存在するの。あなたには視えていないだけ。灯が見えなくなったのはあなたの中の灯が消えてしまったからよ。だから私は灯を消したの。」と少女は言った。少女はワンピースを脱ぐと裸になった。まさに形而的な裸体だった。全ての曲線が何かを意味していたし、意味の無いものでもあった。少女は僕の前に立つと、包み込むように僕を抱いた。「帰りなさい。あなたはまだここに来なくてもいいの。観念的世界を楽しまなきゃ。やりたい事だけを必死にやり続ければいいの。命を燃やし尽くすの。自分の観念を忘れなければいいのよ。」と少女は言った。「ここには二度と戻って来れないような気がする。君はもうじき僕の中から消えてしまうんだ。」と僕は言った。「消える事は存在するの。だから私は消えないわ。」僕の体が彼女の中に入っていく。まるでゼリー状の液体の中にずぶずぶと埋め込まれていくようだ。「あなたの中に居る私の中にあなたが入っていく。」「何をすればいい。僕には淡々とただ日々を生活していく能力しかない。パスタを茹でて風呂を洗うくらいしか出来ないんだ。」「あなたの中で答えは分かっているはずよ。私はあなただもの。」次第に意識は薄れていく。頭の中が霧でいっぱいになる。真っ白だ。僕は丘の上の家に住んでいる。毎日、雨が降らない限り窓の向こうの観念的な夕陽をぼんやりと眺めている。ある日突然、扉はノックされる。扉は僕が特注した自慢の扉なのだ。わざわざガラス細工で魚を彫ってもらった。眼にはアメリカの友人から貰った大きな赤いサファイヤも埋めた。扉は再びノックされる。僕はランプに火をつけて扉に向かう。そういえばコーヒーが作りかけだったな。扉の前には赤いワンピースの少女が立っていた。「どうして灯を燈さないの。」