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2011年11月25日
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ごほっ、と水を吐いた。
しばらく咳き込み、やっとのことで上半身を起こすと足に刺すような痛みが走った。生きている。思わず自分の手を見つめた。
白く浮かぶ月に寄せ返す波音。

「ここは…。君は……?」

岩礁に両手をついてこちらを見ている若い女性に問いかけた。
その下半身は岩に隠れて見えないが、波の下のはず。長く波打つ夜色の髪も濡れ、服は着ていないように見えた。

彼女が助けてくれたのだと聞いて、ほっと息をつき落ちかかっていた銀髪をかきあげて礼を言う。
セイレーン、という単語が胸をよぎった。
美しい歌声で航行中の人を惑わし、遭難や難破に遭わせるという人魚。

蒐集していた伝説の登場人物が現れたのだろうかと、すこし目をみはる。居ないと思っていたわけではないけれど、自分が会えるとは思っていなかったから。
しかしじろじろ見ては失礼になることに気づいて、はっと視線を外した。


ぱちぱちと焚火が爆ぜる。
踊る炎に照らされる彼女の姿は、やはり人魚だった。

岩に登って横に腰かけてきたとき、怖くはなかったが手を貸していいものかどうか戸惑った。二本の脚ではない、鱗に覆われた魚の下半身では登りにくかろうし、岩肌に鱗が擦れて痛そうだ。
しかしセイレーンなる存在は誇り高いと聞いていたし、人間の手を借りるのは潔しとしないかもしれない。

そんなことを考えているうちに彼女はさっさと岩に上がり、長い尻尾の先で波をさらさらと触れながら半身をひねってこちらを覗きこんだ。
生命力に満ちた、意志の強そうな瞳が火影にきらめく。

波音を背景にぽつぽつと語られた話は、すぐには信じがたいものだった。
何十年か昔、今ここに居る私がこの世に生を享ける前。
彼女が愛し、彼女を愛していた「私」が出会いのために中断していた旅を再開し、途中海戦に巻き込まれて死んだこと。
血をひいて沈む遺体を、彼女が海の奥津城に連れて行って葬ったこと。

あなたのことよ、と細く白い指が私を指した。
何と応えてよいかわからず、思わず目をしばたたく。

旅に生きる本好きな男。君の鱗に傷がつくからと、岩に上がろうとする彼女をマントで包んだのだという。

やりそうだ、と思う。そう、もしもそれが私なら。
先程、鱗が擦れて痛そうだと思った。結局動けず、悩んだだけで終わってしまったけれど。
もしも手元にマントがあり、彼女を抱き上げられるほど健康で、そして彼女を愛していたなら――
どこにも、躊躇する理由がない。
潮がマントに染みることなど、同じく気にしないだろうと思った。

けれども今、ここにマントはなく、足首の負傷は自分が立ち上がることさえ妨げ、……彼女のことをどう思っているのか、自分にもわからずにいた。
嫌ったり怖がったりしていないことは確かだったが、愛しているかと問われればどうなのだろう。
愛というのはそんなふうに、突然に降ってわいてくるようなものなのだろうか?

困った顔をして首をかしげると、彼女は苦笑した。

「いいのよ。ごめんなさい。分からなくて当たり前のことだから。……そのとき恋仲だったから、また愛して欲しいと言いたいのでは無いの」

丸みを帯びてきた月に照らされる、哀しそうな微笑。長い睫を寂しげに伏せたその姿に、胸がずきりと痛んだ。

思い出せたらいいのに、と。
もしもそれが本当に自分だったのなら、思い出せたらいいのにと。

されば彼女の憂いは晴れるだろうかと思った音は、どの弦がはじかれたものだろう。同情か、憐れみか、それとも愛か。私には判別がつかなかった。

「今度はあなたが沈む前に息を繋げられたから、良かったと思ったのよ。私には嬉しいことだった」

彼女は白い月を見上げる。

「でも。あなたにはあまり嬉しいことでは無かった。……そうなのね?」

戻ってきた視線に、私はまた答えられなかった。
海の中ぶくぶくと引いてゆく細かい泡をぼんやりと眺めながら、ああこれで楽になれるかと思ったのも事実だったから。

事業家の父が遺した巨額の負債をひっくり返そうと、躍起になっていたところ。
かなりの財産を処分することでほとんどは返済したが、残っている事業を立て直さなければならなかった。

そのこと自体は挑戦の楽しみもあり、たいして苦ではなかったが、数年がたち借金がなくなって黒字の匂いがしてくると、途端にハイエナたちが群がり出す。
恥という単語を辞書に持たない親戚たちの言動に心底辟易して、ほとんど発作的にすべてを投げ出したくなっていたところだった。

斜めに海に沈んでいったとき、不思議と苦しいとは思わなかった。その後一度意識を失い、彼女に助けられて岩場で息をふきかえした時の方が苦しかったくらいだ。

だが、彼女にとっては。
もしも私が彼で、そして望まぬ遺体として再会していたなら、生きている私を助けられたことは嬉しいことだったろう。
生まれ変わりを知る能力があるのなら、たとえ覚えていないとは知りつつも、かつての恋人を見つければ淡い期待もするだろう。

彼女のことを覚えておらず、愛しているとも言えず、まして生き延びたことすら喜んでいない私の存在は、わざとではないにせよ彼女の想いをことごとく否定していた。

申し訳ないとは思ったものの、海難に巻き込まれて死にかけた命を拾ったばかりでもある。まだ何もかもが急すぎたし、嘘を言うのもまた誠実な態度とはいえない。
黙って炎を見つめていると彼女は言った。

「…あなたは陸にお帰りなさい。私、小船を見つけてくるわ。怪我がもう少し良くなったら、船を操ることも出来るでしょう」

 どこかの… 港の近くまでは送ってあげる。そうしたら、さよならね。
 水の禍にはもう巻き込まれませぬように。 護りを渡すわ。あなたに。

月光の届く波間を見つめ、呟くように言う。

「……シシィ?」 

問いかけた声には、なんでもないわと笑った横顔が返ってきたけれど。

「……日が昇ったらまた来るわ。じゃあね」

こちらを振り向かぬよう深夜の海に飛び込んだ彼女は、きっと泣いているのだろうと思った。














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To be continued …

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最終更新日  2011年12月30日 14時44分45秒
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