カテゴリ:カテゴリ未分類
こう考えてしまうのは 私がさみしい人なのかもしれないけれど 誰かの悲しみや苦しみを、共有することなんてできない 気がする(全否定ではない) だって自分のことじゃないのだもの 私が悲しくて苦しいのじゃないのだもの その人と自分を置き換えて考えてみたりするけれど、その人と自分の感受性は違うだろーし 過去に自分が同じような経験をしていないと、 あんまりあんまり同情してあげられないんだろう 他人の痛みがわかるひと 他人の気持ちにはいりこめる人は うらやましいな どうしても自分の経験と感性と気分で対応してしまうなら 結局自己中心的考えであって それをさも親身になったように述べるのは偽善みたいでいやだ あなたがどんな宇宙をもっているのか 私は知らないんです あなたがどこからきたのかも、知らないんです 結局分からないなりに エゴとエゴ同士で ちょっとした思いやりとちょっとした思いやり同士で うまくいけばいいんじゃないかなと ねむい つづきあとで --- いや そう考えると さむい・あつい・つめたい は 比べてなんと共有しやすいことか さむいですね とか なんにもならないのにつぶやいてしまいがちだから 話題がないときに持ち出すのはやめようと思ってるけど さむい とか 差はあっても ほんとうにお互い 冬のさむさ 感じているんだろうから それって爽快というか 心おきないと ひねくれた私は 思ってしまった なにかを共有できるってすごいこと さむさあつさの感覚じゃなくて、うれしい楽しい悲しいつらいの感情を共有できたら、 もっとすごいこと。 そこには1×いくつ じゃなく 1+なんとかのチカラがある いや分かりづらいこの例え 話がうまい人っていうのは、たとえ話がうまいみたいです。 ジョーゼツになれたら ちょっと得する気がします 今日は派遣でいっしょになった人と 「さむいですね」を連発したいちにちでした お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.03.18 23:14:50
コメント(0) | コメントを書く |