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カテゴリ:京都
バスを降りて会社までの道のり 花魁(おいらん)道中がしたい 豪華な着物をまとい歩きたい・・・ 何度も何度も その思いは募るのです。 なぜだろう?
ここは鷹ヶ峰 長い坂を登るとお寺はありました。 私は どうもこの場所に来たかったようです。 前世は女郎?花魁だった?? 情で付き合ってしまうことも 変な色気も・・・ ここから来ていたのでしょうか??
毎年 春には吉野太夫花供養 花魁道中がご覧いただけます。
常照寺は、日乾上人に帰依した吉野太夫ゆかりの寺として知られ太夫の墓や 太夫が寄進した「吉野の赤門」と呼ばれる山門、吉野窓(茶室)、吉野桜も有名。
当時の上流社会の社交場の花であった太夫は、京の豪商で 文化人でもあった灰屋(佐野)紹益に見初められることとなった。 しかし、身請けしようとした紹益の親は猛反対。
紹益の父が、雨にあって傘を借りに入った家で、世話をしてくれた女の 茶立てやその他の振る舞いが礼にかなっているのに感服、その女が吉野 であることが分って勘当をゆるしたという。
「都をば花なき里となしにけり 吉野の死出の山にうつして」 吉野は38歳という若さで病死されました。 甘い生活は12年で終りましたが太夫への愛は続いていたのでしょう。 太夫と紹益のエピソードを元にした歌舞伎の戯曲として「桜時雨」が有名 灰屋紹益(はいやしょうえき)1607~1691江戸前期の京都の富商。 本名、佐野重孝。 本阿弥光悦の門下で、歌道その他各芸に通じた。随筆に「にぎはひ草」がある。
吉野太夫は 江戸時代、京都の遊廓(ゆうかく)島原の遊女。 吉野太夫を名のった者は時代を前後して数人以上みられ、 そのうち灰屋紹益(しょうえき)(佐野重孝(しげたか))の妻になった者は有名 (にだいめよしのたゆう、本名松田徳)1606年4月10日 - 1643年10月7日
人を愛することは 素晴らしいこと 愛する人に 触れることさえ許されなくとも 私はその愛を忘れない 忘れない
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