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カテゴリ:人間教育
コーチングの世界では、承認することの大切さ、褒めることの大切さがいわれる。もちろん頭ごなしに罵声を浴びせられるよりは遙かにいいに違いないのだけれど、ほめる・・ということに私はこの頃少し懐疑的になっている。 実は、KATAKURIが小さい頃、私は、励ますつもりで盛んに、ほめてほめて、ほめまくって育てたのだ。そのことで、彼女が思春期に達するようになって、少し疑問を持っている。果たしてあれでよかったのだろうか?と。 彼女が生まれる前から、私は、「問題のないよい子が実は問題なのだ」という実例を嫌というほど見てきた。だから、良い子をであれと要求することはないつもりでいたけれど、結果として、親がいい子を要求する前に、彼女の方から親の望むいい子を暗黙のうちに察して、「先取りいい子!」を演じてしまったようだ。 ほめて育てられると、自分の内発的な欲求や関心よりは、他人の評価が行動原理になってしまう。いつも、大人の顔色を見て、「ほめられるためになにかする」「大人の望む行動をとってほめられようとする」そんな行動様式が、知らぬ間に身についてしまうのだ。 天外伺朗さんは、「完全自由化宣言」の中で、その辺のことを「他人の評価に依存する習慣を身につけさせてしまうのでよくない・・」と指摘している。 さらに 水道方式の遠山啓先生も、評価は最低限で、教師の反省のためにするもので、学外に持ち出し厳禁・・という考えだったのを思い出す。 自然の中でしっかり地に足をつけて、人の評価に振り回されず我が道を行け・・ということなのだ。天外さんはその辺の事情を、ディープ・グラウンティングと表現する。 ニールのサマーヒル学園でも、「こども達が自分自身である自由」を与えれば、独りでに立ち直り、成長してゆく」姿が見られたのだという。 「困った子というのは、実は不幸な子どもである自らの存在を否定された何らかの体験をしており、自分自身と闘っている。その結果周りの世界と闘うのだ」ニイル。 サマーヒルに入学して六ヶ月保護にはほとんどの子どもは幸福で健康になり、悪いことは何もしなくなるのだという。 その間先生達は、一切の注意や叱責をせず、こども達を導こうとせず、全面的にありのままの姿で受容し、自由を与えるのだという!! 今だに、抑圧的な上からの道徳の押しつけ一辺倒の、どこかの教育官僚に見て欲しいようだけれど・・ ほめない、叱らない、価値観を押しつけない、じっと見守る・・・ どこかでニールに出会っていたのだろうか・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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