農業の体質転換を!
上杉鷹山を見習ったらどうだ! 世の中が窮状に陥った時によ~く引き合いに出される江戸時代の偉人の 一人である。 驚いたことにあのジョン・F・ケネデイが日本の偉人の中で一番 尊敬していたのは上杉鷹山だと言ったそうだ。 この人1951年日向(宮崎)藩主の三男として生まれ10才で米沢藩の上杉重定 の養子となるのである。 米沢藩は関が原の戦で石田三成に味方して徳川家康 の逆鱗に触れ120万石から30万石へと禄高を減らされた。 更に上杉重定の 急死により家名断絶は免れたものの15万石まで減らされた。 17才で藩主になった時には藩の財政はボロボロだった。 収入は1/8になった のに120万石の格式を踏襲して家臣団も出費を削減しない。 たちまちその借金 は11万両に達した。 この姿は今の日本に似ているのではないだろうか? そこで鷹山の出番である。 米つくり以外の殖産興業に乗り出した。 寒冷地に 適した漆(うるし)や楮(こうぞ)、桑、紅花などの栽培を奨励。 また動きの鈍い 老人には錦鯉の養殖(江戸で爆発的に売れる)などなど。 藩士にも命じるが武士の反発を食うと、自らが城中に植樹し、平和の世に武士 が農民に徒食するとは何事か! と戒め武士たちの改心を促すのである。 農民には五人組、十人組と一村単位で組合をつくり、助け合うことを命じた。 特に孤児、孤老、障害者は組合が養うことを命じた。 また90才以上の老人 をしばしば城中に招いて料理と金品を振舞った。 そして子や孫が付き添って 世話をすることで自然に敬老の精神を培ったのである。 かくして藩財政を立て直したのである。 これは諸賢兄姉の知る通りである。 後に35才で上杉重定の子、治広に家督を譲った時に、次の3ヶ条を贈った。 1. 国家は先祖より子孫に伝え候、国家に我私すべきものにこれなき候。 1. 人民は国家に属したる人民にして、我私すべきものにはこれなく候。 1. 国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民にはこれなき候。 悪代官どもには耳の痛い話であり、この3ヶ条はまさに、 Government of the people, by the people, for the people に通ずる話ではないか。 こうして、自ら助ける 「自助」、近隣社会が互いに助け合う 「互助」 そして 藩政府が手を延ばす 「扶助」 の精神を藩政に浸透させたのである。 彼の時代を超越して賛同できる数々の施策は現代社会にも十分参考にして 反映できるものであると思うが如何なものか? なまじ豊かになり過ぎたきらいのある日本だけに、食うや食わずの飢餓時代 とは違うから危機対策が進まないのだ。 筆者はテレビ東京の 「カンブリア宮殿」 が好きでよく見るが、昨夜は農業の 分野で、これからの日本の農業を探る格好のモデルを放映していた。 都会の若者が自己完結型で農業を生業とし挑戦できる新型のモデルである。 長い間の農協を軸にした古い利権体質のものではなく信賞必罰で合理性の ある株式会社農業である。 増え続ける休耕地をレンタルし作物を仲間共同 で栽培しそれをスーパー、外食チェーンなどへ直販する体制。 農協が零細な農民を鵜飼いのようにひも付きで管理し、形状の悪いものは引き とらないで捨てさせたり、カネを貸しては高い農耕機械を売りつけ、高い肥料を 使わせて借金で縛り付けるような農業では子供も後を継ぐものも減り、衰退する のは当たり前のことだ。 農協は個々の農家が合体したり組合を作られては困るのである。 機械の数も 売れなくなるし、発言力が大きくなるし直販体制やら直仕入れができるようになる ので零細なままが御しやすかったのだ。 この農協の体質が日本の農業を大きく 後退させた元凶であったといっても過言ではない。 そしてそれを自民党の族議員 が強力にバックアップしていたのである。 会社組織の参入を妨害し、減反政策を取り続けた結果、食料の自給率が激減し この世界的な食糧難の時代に休耕田が増えていくなどどいう国家の愚策は恥ず かしくて外国に言えることではないだろう。 上杉鷹山の時代に既に一村単位の組合共同生産が行われていたのである。 そんな素晴らしい頭脳が何故引き継がれなく今日の農業の疲弊をもたらせた のだろうか。 工業優先とは言え一次産業としての農業の大切さは昨今の 不良で危険な輸入中国農産品で懲りたであろう。 これでまだ農業の重要さが分らなくて国をあげて農業の体質転換が図られ なければ政治の貧困以外のどんな理由が考えられようか。 住む所もなく仕事もなく都会で困窮している人達を農業分野に誘導する絶好 のチャンスだとは思えないか? 政治は今こそ上杉鷹山を見直す時だと考えるがいかが賢兄姉は思われる?