断片的であるが、”旅”・・・・・
旅といえば古くは西行法師、江戸時代には松尾芭蕉、もう一人有名 なのは漂浪の俳人種田山頭火がいる。 もちろん他にもゾロゾロと 旅をまくらに人生を模索した人はたくさんいるだろう。 近くには、”自分探しの旅” とか言って世界をウロウロしていた 元サッカー選手もいた。 何を探しに旅に出たのかは知らない。 そして、探しおおせたのかしらん? それもどうだったか知らない。 ”かげさえてまことに月のあかきには心も空にうかれてぞすむ” 月の光が冴えかえって、ものすべてがはっきり見える夜は、心も その月に憧れて出て空に住むかのような状態になってしまい、その 月が澄むように自分の心も澄みわたることよ。 これは西行独特の世界で詠まれた歌であるという。 つまり西行の この空は目に見えている空ですが同時に仏教の 「色即是空」 という 空(くう)の世界を詠んでるという。 出家をして旅に出た西行には歌に詠むものみなすべてが仏教でいう 「空(くう)」 の世界につながっていると見てよいという。 旅に出て仏に帰依する自分の真の姿を探求してみようとしたのかも 知れない。 その意味では自分探しの旅といえぬことはない。 松尾芭蕉はある人に言わせれば彼の旅は隠密の目的だという。 随行 した曽良の身分から類推したのだろうが、だとしたら彼の旅には伝奇 も何もない。 私にはそうは思われない。 「奥の細道」 のような 旅日記など著わす必要などないしそれに風土記的なロマンが感じられ るからである。 行乞の俳人種田山頭火には多くのファンがいる。 韻を踏まない独特 の句には自然な温かみを感じる。 この人の漂浪の旅は究極の貧しさ と同居した達観みたいなものがあって禅宗曹洞宗を得度し出家した芯 の強さが彷彿される。 ある意味西行法師と類似する部分を垣間見る ような気がするのである。 彼の旅は貧しい、貧しさがひしひしだ。 旅とは魂(たましい)の浮遊であり、落着き先の確認のようでもあり、 新しい体験、物珍しいものを見聞きする体験を通じ我を高めてゆく 試練のようなものでもある。 だからそこに伝奇(ロマン)があるの だろう。