銭湯の思い出・・・♪
銭湯といえばテレビであった、「時間ですよ~」 を思い出す。 森光子と船越英二夫婦の 「亀乃湯」 だったか・・・・・ 私は中学生時代に北海道から大阪の親戚に来るのに函館本線、 青函連絡船を乗り継ぎ青森の長いプラットホームを競走の様に 走り奥羽本線か東北本線の上野行き列車に乗った。 それでも 座席は取れず終いだった。 とにかく当時は座席指定などなく 早いもの勝ちだったのでひどいもんだった。 列車も詰め込む だけ詰め込むから通路もデッキも人で溢れていた。 青森から十数時間洗面所やらデッキ付近も人で一杯の夜行列車 で東京に着く。 蒸気機関車だったから車中が暑く窓を開ける ので煤煙(スス)だらけになるし汗とススでべったべたになる。 漸く東京駅に着き入った銭湯のなんと気持ちのよかったことか! 銭湯といえばあの有難みが忘れられない。 それからまた大阪 目指し7~8時間。 長い長い旅だった。 ところで戦後67年にもなり文明の進歩のお蔭で今では殆んどの 家庭に風呂がつくようになった。 それにつれて銭湯というもの が激減していく。 1970年代に南こうせつの 「神田川」 では、 ♪~あなたはも~ぉ忘れたかしら~ 赤いてぬぐいマフラーにして~ 二人で行った~横丁の風呂屋~ 一緒に出ようねって言ったのに~ 当時はまだまだ銭湯華やかなりし時代だったのだ。 時代は飛ぶ様に 過ぎていった。 なにかつい最近のように思ってしまう。 銭湯といえば木のゲタ箱があり、ゴムの輪っぱのついたカギが付き物 でそれを手首か足首に付けて入るのである。 番台にはおばちゃんか ぢーちゃんが座ってニラミを利かせている。 ぢーちゃんなんかは 大抵女湯の脱衣所ばかり見ていた様な気がする。 あたしは鉄道関係家族専用の銭湯があってそこばかり行っていた。 午後の3時頃から開くからそんな早くに行くといつもどこからか 集まるぢーちゃんばかり。 ぢーちゃん達はすることがないから 一番湯目がけて早い。 そうして大抵は臭い息を吐きながら湯船 に浸かっていた。 初めは何のニオイが分からなかったがやがて 判明した。 ニンニクのニオイだったのだ。 当時からニンニク はぢーちゃん達の元気の素だったのだ。 ニンニクは家の周りに 植えればばいくらでも産れたから手軽な強壮食物だったのだろう。 銭湯には富士山の絵がつきものである。 いつぞや、その絵ばかり 書く人がテレビで紹介されていたが今では滅多に仕事が回って来な いと諦めていた。 仕方がない、時世の移り変わりなんだね~~