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深夜2時、母親からメールが。
正直、ものすごく嫌な気分になる内容だった。 要は私のことを心配でメールしたみたいだが、ことのほか今やっていることを否定したりする意味のないものだった。 特にここ最近、そういうメールが続いてくるようになった。 私が何かをやろうとすると、いつもこうだった。このパターンは変わっていない。 実は宮里藍と横峰さくらの女子プロゴルファーが注目される中、その指南役の父親にもスポットが浴びているが、横峰さくらは宮里藍のいつも2番手である。 近しい人からの幼少の頃からの指導や環境によって天才が生まれることを言いたいわけではないが、ただ宮里藍の父親と横峰さくらの父親の決定的な違いがもしかしたらその実力差を作っているのでは?と半ば確信めいたものが私には芽生えた。 その差とは、 「子供を信用しているかどうか」 ということにあった。 褒めて伸ばすほうがいいとかそんな単純な解釈のことを言っているのではなく、横峰さくらの父親は自分がいなければ娘はダメだと真剣に思っていることに対し、宮里藍の父親は指導はしているが、ある線を越えると娘を信頼し、全面的に任せているところにある。それは失敗も成功も全部受け止めてあげるくらいの深い懐がないとできることではない。しかし、それによって宮里藍は父親のことを全面的に信用しているし、いち早くプロゴルファーとしての意識をもってプレーに望めていると思う。 それに対して横峰さくらの父親は、マスコミは引っかきまわすは反抗期の娘とやりあうわで、これではいつまで経ってもひとり立ちできないように無意識にしていることに気づかないようである。 うちの母親は私が何かするのも怖いし、何もしなくなるのも怖い。 だからいつも肝心なところでキラーパスを出す。 これは神のお告げとかそういうものではない。物理的なものだ。 特に私は親に従順(?)というか、ある意味絶対的な権力をもった存在の親にいい意味では信頼をしていたが、悪い意味では自分の人生の決定に親に依存していた部分はたくさんあった。だから、親のいうことだけはいつも感情的になっていて、そのせいで投げ出したこともたくさんあった。 本当の意味での独り立ちとは、親は世の中では絶対的な存在ではないし、ある年令になると違う親子関係になることにあると思った。だって、親子の間が全く他人になるわけではないから。 しかしながら、いつまでも自分達のゆうことを聞かせたいとか感情的になるようなことをしていると成長はない。 私は今回のメールでは確かにいい気分ではなかったが、自分が本当の意味で独り立ちできていないことにやっと気づいたかもしれないが、それだけでもよかったと思っている。 悪いがこっちが大人になるしかないし、親離れするしか道はない。 メールは母親には返していないし、これからもあまりそういう類のメールには返事を返さないと思う。でもそれでいいと思っている。 いい意味で、「親であっても別人格で、似ていたとしても自分ではない」ということだ。 30手前で気づくなんて恥ずかしいかもしれないけど、人のせいにもしてられない。 でも、昨日やっと心に詰まっていた何かが、ストーンという音とともに落ちた感じがした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005/06/22 01:41:20 PM
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