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三ヶ根になんと中三生が研究に見えた。東条閣下の研究レポートを書くために来たのだという。豊田市の女中学生。素晴らしき生徒さんである。
私は昭和天皇陛下が、「もし戦争突入を食い止めることが出来るとしたら国力を詳細につかんでいる東条以外にない」とご判断され、大命降下なされたことを伝えた。さらに明治憲法は為政者の独裁を許さない憲法であり絶対君主制でも無論無いこ事。、陛下が憲法上の権限を越えて国政にかかわられた3度の例、つまり226事件時の反乱軍平定判断・・田中内閣大陸出兵時のご叱責による内閣辞任・・終戦のご聖断時、これらの3回のみと。 しかもそのご判断は緊急にして不可避。正当なものであったと説明しておいた。決して専制国家であったのではないと説明をしておいた。 こうした中学生の出現はまさに待望してきたこと。時代の変化を感じた。大いに喜ばしていただいた。 まもなく四月二十八日がやってくる。サンフランシスコ条約の発効日であり日本の独立場なった日である。この日に東条閣下以下7名の慰霊碑の建立の提起が三文字正平弁護士らによりなされ、その実現が昭和35年夏にここ三ヶ根に殉国七士廟建立が成ったと説明した。 4月28日にも私は国旗を掲げる。 敗戦の後、日本は米軍を占領軍として迎え、徹底的な日本断罪政策に従うしかなかった。吉田総理もマッカーサーの意図には抗しきれず、「日本が完全に武器を持たないことが日本の安全保障のためには最大の安全」と考え、9条厳格実施、非武装中立国化し国連による安全保障を主張していた。日本の国際社会復帰を急いだ政府は米国の意図に従った政策を打つしかなかったのだろう。 本土からは米軍撤退というマッカーサーの持論にあわせて独立を急いだのだ。 また米軍内部にては、沖縄をハワイやグアム同様、米国に併合する案が大勢となっていた。国務省は信託統治制度により、米国の施政下におこうとしていた。 おそらく沖縄は半永久的に米国支配下に置かれることになる危険性は多分にあった、 しかし昭和天皇は樺太も千島も台湾も取られようと沖縄の民は見捨ててはならぬ。いかに困難であろうとたとえ施政権は一時米国に渡すとも沖縄の主権は日本にあることをダレスを通じて米国に認めさせた。 陛下の先見の明には驚くばかりである。 敗戦と同時にGHQによる間接統治が始まり、以来7年。日本の文化伝統は多くは破壊され、靖国神社さえ廃棄されそうにもなった。国旗の掲揚すら制限され、陛下のご巡幸すらストップがかけられもした。とりわけ武士道など日本精神や,神道などの信仰は厳しく制限、弾圧され、歴史の改ざん、教育の改変など、精神文化は大きくゆがめられた。米兵に対する「慰安婦」も万を越す子女を用意させられ、悔しくも占領軍に対する批判の一切は許されず、歴史は断罪され分断されたのだ。この屈辱を飲んで日本は独立を選んだ、 政府もそれなりの抵抗は為した。 朝鮮戦争への派兵は9条を盾に拒絶。先日までの同国民たる朝鮮人に銃を撃てるわけはないと出兵拒絶。 ひたすら経済復興の道を歩んだ。 配線後遺症が色濃く残る日本。しかし昭和100年を迎える来年までにはできる限り本来の日本精神を取り戻さねば、 歴史観の是正を急がねば お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.04.21 08:11:38
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