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草莽の記    杉田謙一

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seimei杉田

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2024.04.25
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昭和の日奉祝講演会のお知らせ  
  
日時 令和6年4月29日(月・祝日) 午後 4時開場 4時20分開会
場所 愛知県蒲郡市金平町関戸38番地 0533-65-7449

   蒲郡ホテル形原別館 形原リゾート(三ヶ根山 形原方面料金所出口すぐ左折下山すぐ)
主催 「昭和の日」奉祝祭実行委員会 委員長 伊藤幸男 名経大名誉教授
      連絡 090・8554・0817(杉田)

参加費   講演会のみ 1000円 講演会+食事会 3000円
内容
           
①記念式典          4時20分~4時30分         
記念講演         4時半より6時
講師        有働智奘先生  国学院常任講師ほか・薬師寺高田好胤師最後の弟子
演題       「自然と共存日本」
③ 食事会 食事中 意見発表 6時半から7時半
道義国家実現を目指す国民の願いやその精神を最も深く体現為された昭和天皇の並々ならぬ祈りやご尽力により我が国は奇跡の復興を成し遂げました。アジアは被植民地時代からかろうじて脱出。植民地主義を一掃した実績は人類史上大きく輝く成果といってもよいかと思います
 昭和天皇のご聖徳をふりかえり、日本を見直そうではないですか。
ご参加くださる方は09085540817ないしファックスで0564・51・8966まで
なお当日、三ヶ根山では
三ヶ根山殉国七士慰霊祭 4月29日(月・祝)午後2時より が開催されます。

 殉国七士慰霊祭は奉賛会の永年の継続的なご努力で実施され続けられている伝統のある慰霊祭です。全国から多くの皆さんがご参加になられます。私も昭和の時代から参加させていただいています。
私どもは数年まえから殉国七士廟の周辺をもっと明るく整備できないかと友らとはかり、くさとりから始め雑木の整備や花壇つくりを始めてきました。
 今は芝桜やパンジーなどがきれいに咲き誇るようになりました。

 また多くの方にから昭和天皇のお誕生日を「みどりの日」から「昭和の日」と改名されたころから
昭和天皇のご聖徳をもっと広めねばとの声の高まりを受け講演会を開催することに。
 殉国七士慰霊祭に参加してくださる方をより多くするためにモ都合よくするため三ヶ根山近くで昭和の日奉祝祭を三ヶ根山近くで開催することにしたのが3年前。同憂の友で実行委員会を開催し講演会の開催を決めたのでした。
 
 さて日本の占領統治が終わって70年の歳月がたちながらいまだ占領史観を峻拒できないでいる我が国。これはいただけない。

あらためて主権を取り戻した日本国がどのように歴史を回復しだしたか、振り返ってみましょう
独立回復はサンフランシスコ平和条約発効の昭和27年4月28日です
まず
 昭和二十八年八月三日、衆議院本会議で、
「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」
が、全会一致で採択された。
 これと並行して、戦争裁判による死刑者、獄死者の遺族年金、恩給支給の運動が起こり、当時の左石社会党を含む国会の、全会一致で右法律が可決された。
通常懲役三年以上の刑に処せられたものの恩給は停止されるが、東京裁判の死刑者等は、国内の犯罪者ではなく、戦争犠牲者と考えたから支給を決めたのです
つまりサンフランシスコ講和条約発効後、いわゆるÅ級戦犯の受刑者は、国内法上は「公務死」の扱いにされたのです

 「A級戦犯」として巣鴨拘置所に繫がれた岸信介は、やがて首相になった。「A級戦犯」として禁固七年とされた重光葵氏は、戦後、鳩山内閣の副総理・外相となった。終身刑だった賀屋興宜氏は、池田内閣の法相を務めた。東京佐軍治が法の番人となったのだ。かくして、A級戦犯だった人が、名誉回復されても、内外共に非難と異議はなかったのです

中国は、前年の二十七年八月、日華条約発効と同時に全員赦免を明記しているのです。。
 さて、そのスリランカ。日本にとっては本当に感謝しなくてはならない国であります。その初代大統領ジュニアス・リチャード・ジャヤワルデネ氏はお亡くなりになった際、遺言でご自分の角膜を日本に贈ってくださったことでも有名な方です。
 日本がサンフランシスコ平和条約締結時、この様な大演説をしてくださっています。

一九五一年九月六日 アメリカ合衆国サン・フランシスコに於ける、対日平和条約の締結と調印のための会議に於けるセイロン政府代表団々長ジュニアス・リチャード・ジャヤワルデ閣下の演説 

 何故アジアの諸国民は、日本は自由であるべきだと切望するのでしょうか。それは我々の日本との永年に亘るかかわり合いの故であり、又アジア諸国民が日本に対して持っていた高い尊敬の故であり、日本がアジア緒国民の中でただ一人強く自由であった時、我々は日本を保護者として又友人として仰いでいた時に、日本に対して抱いていた高い尊敬の為でもあります。
 私は、この前の戦争の最中に起きたことですが、アジアの為の共存共栄のスローーガンが今問題となっている諸国民にアピールし、ビルマ、インド、インドネシアの指導者の或人達がそうすることによって自分達が愛している国が開放されるという希望から日本の仲間入りをした、という出来事が思い出されます.

 セイロンに於ける我々は、幸い侵略を受けませんでしたが、空襲により引き起された損害、東南アジア司令部に属する大軍の駐屯による損害、並びに我国が連合国こ供出する自然ゴムの唯一の生産国であった時に於ける、我国の主要産物のひとつであるゴムの枯渇的樹液採取によって生じた損害は、損害賠償を要求する資格を我国に与えるものであります。

 我国はそうしようとは思いません。何故なら我々は大師の言葉を信じていますから。
大師のメッセージ、「憎しみは憎しみによっては止まず、ただ愛によってのみ止む」はアジアの数え切れないほどの人々の生涯(生活)を高尚にしました。仏陀、大師、仏教の元祖のメッセージこそが、人道の波を南アジア、ビルマ、ラオス、カンボジア、シャム、インドネシアそれからセイロンに伝え、そして又北方へはヒマラヤを通ってチベットへ、支那へそして最後には日本へ伝えました。これが我々を数百年もの間、共通の文化と伝統でお互いに結びつけたのであります。この共通文化は未だに在続しています。それを私は先週、この会議に出席する途中日本を訪問した際に見付けました。又日本の指導者達から、大臣の方々からも、市井の人々からも、寺院の僧侶からも、日本の普通の人々は今も尚、平和の大師の影の影響のもとにあり、それに従って行こうと願っているのを見いだしました。我々は日本人に機会を与えてあげねばなりません。

 そうであるから我々は、ソ連代表の云っている、日本の自由は制限されるべきであるという見解には賛同出来ないのです。
 ソ連代表が加えようと欲する制約、例えば日本が自由の国であれば当然そうする資格のある国防軍を維持する権利に加える制限といったもの、そして、彼が提議する他の制限は、現在ここの会場に居られる代表の大多数の方々にとって受け人れ難いものにするばかりでなく、この会議に出席されなかった国々の中の或国、特にこの条約のありありと心に描くところより更に進んだ所へ行きたい印度にとってさえも、受け入れることが出来ないものにします。若し再びソ連がカイロとポツダム宣言に反して、日本へ返還した琉球諸島と小笠原諸島を欲しがるのなら、それでは何故南樺太は、千鳥列島もまた日本へ返還されないのか?      後略 引用以上


 露骨な反日主張が繰り広げられる中で、議論の内容、雰囲気が大きく変わったと聞きます。ソ連の野望を打ち砕く大演説を行ってくださったのでした。
「セイロンは対日賠償権の一切をここに放棄する」
 日本の全権代表だった吉田茂はその演説中、ずっとなきつづけていたと聞きます。演説が終わった瞬間、全員が起立し、会場を揺るがさんばかりの拍手が巻き起こったといいます。窮地にあった日本を救ってくれた演説だったのです。

 パール判事のことといい、インド(セイロンもかつてはインド)は実に親日です。
 日本を支えてくれた国々をないがしろにしてはならないと思います。
 チベット、ウイグル、台湾などの支援はまさに日本の任務であります。

 昭和の時代、その初期にわが国は国際社会のリーダーの地位まで上り詰めた。経済的にも世界ナンバー2の地位を占めることになり、国際連盟時代の常任理事国としても名誉ある地位を占めるに至った。しかし、当時は全世界が欧米列強の支配下にあった。
 アジア・アフリカは列強の巨大な軍事力に支配されていた。被支配民族にとっては、とても彼らに勝利できるとは思いもつかなかったのだ。
 その中で、日本は人種平等を掲げ、果敢にその責務を果たそうとした。国際連盟構築の提案国、アメリカさえ、日本の主張に脅威を感じ、国際連盟参加を否決したのである。
 哀しくも昭和の十六年には遂に覇権国家と鉾を交えることになった。その悲劇は歴史の宿命とはいえ、わが国は悲惨な結果に呻吟せざるを得なかった。経済的にも国力のすべてを使い果たし、大陸にすべての財産を放擲せしめられた。
蒋介石が九州の割譲を言い出したとき、マッカーサーは「大陸の日本財産を手にしてそれて十分ではないか」とたしなめるほどだった。

 日本の苦難の歴史は歴史上に類を見ない。人類初の原子爆弾の被害、占領下の国法明治憲法の改正。東京裁判による歴史改竄と断罪。犯罪国家日本との原罪の刷り込み。
 しかし昭和大帝は死中に活路を見出すべく、祭祀を絶やされることなくお勤めになり、国政上も御退位されることなく、あえて戦前と戦後とをお一人でおつなぎになられたのである。軍すら守りえなかったこの国。それをお一人でお守りくださったのである。国破れるも、悠久の日本民族の叡智と矜持とをわするなかれと。

 敗戦に打ちひしがれていた日本人は占領軍による巧妙な間接統治になすすべを失っていたが、陛下の全国ご巡幸により再度大いなる勇気をいただくのである。陛下がみえる。日本は必ず再建するのだ。
 国民の間に昭和天皇をお慕い申し上げようとの気持ちが髣髴と蘇ったのである。復興の情熱が憔悴しきった国民の心に大きく広がってきたのであった。
「そうだ負けても国守大和魂ここにあり。」遂にわが国は敗戦の汚辱の中から不死鳥の如く蘇った。
 そしていよいよサンフランシスコ平和条約のときを迎えようとしていたのだ。
 しかし、他国は日本の復帰を決して無条件に認めるはずは無かった。ソ連にはまだ抑留者が多数いた。北北海道をよこせと理不尽な要求すら放棄しようとしない。そんな中での国連演説だったのである。
 われらは永続する日本の歴史の中において、日本が苦衷の真っ只中にあったときかかる国家があったことをけっして忘れてはならない。

4月29日は昭和の日です

 
この昭和の日に三ヶ根山では各部隊の法要などがなされまた多くの皆さんが慰霊園に参拝にお見えになられます。最大の慰霊祭は殉国七士墓前祭。

 昭和天皇のご信頼も篤かった東条英樹総理はじめ七名の「戦犯」とされた英雄の慰霊祭です。
ご存知の通り七士の処刑は一二月二三日、上皇陛下のお誕生日です。一九四八年昭和二三年のこと

ではなぜ四月二九日に墓前祭がなされるのか。実は昭和天皇の誕生日のこの日、占領軍は極東国際軍事裁判にて被告を起訴した当日でもあるのです。一九四六年昭和二一年のこと。
昭和天皇誕生日に起訴、上皇陛下お誕生日に処刑したのです。

殉国七士の概略をウィキより転記。

東條英機 - 軍人、第四〇代内閣総理大臣(ハワイの軍港・真珠湾を不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪)

松井石根 - 軍人、中支那方面軍司令官(南京攻略時)(B級戦犯、捕虜及び一般人に対する国際法違反(南京事件))

土肥原賢二 - 軍人、奉天特務機関長、第一二方面軍司令官(中国侵略の罪)
広田弘毅 - 文民、第三十二代内閣総理大臣(近衛内閣外相として南京事件での残虐行為を止めなかった不作為の責任)

板垣征四郎 - 軍人、陸相(第一次近衛内閣・平沼内閣)、満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長。(中国侵略・米国に対する平和の罪)木村兵太郎 - 軍人、ビルマ方面軍司令官、陸軍次官(東條内閣)(英国に対する戦争開始の罪)

武藤章 - 軍人、第14方面軍参謀長(フィリピン)(一部捕虜虐待の罪)

私は子供たちや参拝者の皆様には七士の頭文字をつないで、「とまどひ 生きむ」と教えてもいます。よいかと思います。
「と」は東条「ま」は松井石根「ど」は土肥原「ひ」は広田のように
ご参考までに。


殉国七士墓の建立経緯


さて七人のご遺体は横浜市西区の久保山斎場で火葬され、遺骨は米軍により東京湾に捨てられたそうです。しかし、一二月二五日に小磯国昭の弁護人だった三文字正平弁護士が共同骨捨て場から遺灰(七人分が混ざった)を密かに回収し、近くの興禅寺に預けた。占領統治下の一九四九年五月に伊豆熱海の興亜観音に密かに葬られた。

その後、一九六〇年(昭和三五年)八月一六日に愛知県西尾市(旧幡豆郡)幡豆町三ヶ根山の山頂付近にももたらされたのでした。さらにマイナーですが長野には篤志家により、遺骨の一部が引き取られ安置されています。


日本に戦犯はいない理由


以下ウィキにまとめがあるので引用。

日本の主権回復後の戦争犯罪人の取扱いについては、一九五二年四月二八日発効の日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の第一一条に規定されている。
第一一条(戦争犯罪)

木村兵太郎 - 軍人、ビルマ方面軍司令官、陸軍次官(東條内閣)(英国に対する戦争開始の罪)

武藤章 - 軍人、第14方面軍参謀長(フィリピン)(一部捕虜虐待の罪)


私は子供たちや参拝者の皆様にはに七士の頭文字をつないで、「とまどひ 生きむ」と教えてもいます。よいかと思います。ご参考までに。


殉国七士墓の建立経緯


さて七人のご遺体は横浜市西区の久保山斎場で火葬され、遺骨は米軍により東京湾に捨てられたそうです。しかし、一二月二五日に小磯国昭の弁護人だった三文字正平弁護士が共同骨捨て場から遺灰(七人分が混ざった)を密かに回収し、近くの興禅寺に預けた。占領統治下の一九四九年五月に伊豆熱海の興亜観音に密かに葬られた。

その後、一九六〇年(昭和三五年)八月一六日に愛知県西尾市(旧幡豆郡)幡豆町三ヶ根山の山頂付近にももたらされたのでした。さらにマイナーですが長野には篤志家により、遺骨の一部が引き取られ安置されています。


日本に戦犯はいない理由


以下ウィキにまとめがあるので引用。

日本の主権回復後の戦争犯罪人の取扱いについては、一九五二年四月二八日発効の日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の第一一条に規定されている。
第一一条(戦争犯罪)

第一一条(戦争犯罪)

日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の判決を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一または二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。
一九五〇年代には、これに基づき国内外で収監されている戦犯の赦免や減刑に関する、以下の国会決議が採決されている。

一九五二年六月九日参議院本会議にて「戦犯在所者の釈放等に関する決議」
一九五二年一二月九日衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」
一九五三年八月三日衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」
一九五五年七月一九日衆議院本会議にて「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」

一九五二年(昭和二七年)五月一日、木村篤太郎法務総裁から戦犯の国内法上の解釈についての変更が通達され、戦犯拘禁中の死者はすべて「公務死」として、戦犯逮捕者は「抑留又は逮捕された者」として取り扱われる変化が生じている。

また、一九五二年(昭和二七年)四月に施行された「戦傷病者戦没者遺族等援護法」についても一部改正され、戦犯としての拘留逮捕者について「被拘禁者」として扱い、当該拘禁中に死亡した場合はその遺族に扶助料を支給する事になった。
これらは前年の一九五二年に、国内外で戦犯として収監されている者を即時に釈放すべしという国民運動が発生し、四千万人の日本国民の署名が集まった事に起因する。そして「恩給改正法」では受刑者本人の恩給支給期間に拘禁期間を通算すると規定され、サンフランシスコ講和条約第一一条の手続きにもとづき関係一一か国の同意を得たうえで、減刑された者については、一九五六年までに出所が完了したとされる。

「A級戦犯」の「名誉の回復」については、一九五三年(昭和二八年)七月九日の厚生委員会において、社会党(社会民主党の旧称)の堤ツルヨが「戦犯で処刑されたところの遺族の問題であります。処刑されないで判決を受けて服役中の留守家族は、留守家族の対象になつて保護されておるのに、早く殺されたがために、獄死をされたがために、国家の補償を留守家族が受けられない。しかもその英霊は靖国神社の中にさえも入れてもらえないというようなことを今日遺族は非常に嘆いておられます。」「当然戦犯処刑、獄死された方々の遺族が扱われるのは当然であると思います。」と答弁した。

重光葵は東条内閣と小磯内閣で外務大臣を務め、A級戦犯として有罪判決を受け禁固七年の刑を受けて、講和条約の発効と恩赦後に、衆議院議員に三回当選し、一九五四年に鳩山内閣の副総理・外務大臣となり、日ソ国交回復交渉や国連加盟交渉に取り組み、一九五六年の国際連合総会で日本の国連加盟が全加盟国の賛成で承認され、重光の受諾演説に対して加盟国代表団から拍手で迎えられ、その功績に対して公職引退後(死後)に勲一等旭日桐花大綬章を授与された。

賀屋興宣は東条内閣で大蔵大臣を務め、極東国際軍事裁判でA級戦犯として終身刑を受けた。賀屋興宣は連合国との講和条約の発効と恩赦による刑の執行終了後、衆議院議員に五回選出され、池田内閣で法務大臣を務め、その功績に対して、公職から引退後に叙勲を打診されたが辞退した。

       以上ウィキ転載





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Last updated  2024.04.25 07:09:51
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