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我が家隣接する公民館はかつての城の跡地。この城を立てたのは宇都宮泰藤公。建立役者、新田義貞公の家来として勤めた大人物。ともに後醍醐天皇の建武の新政政権を裏切り世を簒奪せんとした足利尊氏の武力に追い詰められ足利を認め親しもうとなされた、その時すでに勤王の志士楠木正成公は湊川の戦に敗れ、後醍醐天皇をお守りするのは新田義貞勢、洞院実世、千葉貞胤、宇都宮泰藤ら、この宇都泰藤公が開いた城である。もとは栃木の名門宇都宮家の跡継ぎ。先祖を藤原氏とし、のちには姓を大久保と改めていく。家康の家臣大久保忠世は小田原の城主となり大久保彦左衛門は三河物語りを執筆。
さて北陸富山の藤島の戦いで新田義貞公は討ち死にされ、公の首級は京都に送られ、『太平記』によると「朝敵の最たるもの、武家の仇敵の第一」として都大路を引き回されたのち、獄門に掛けられた。獄門に掛けられた首を見た人々の中には義貞の恩恵を受けた人も多く、そういった人々は見るに堪えず嘆き悲しんだのだという。 を 義貞公の首級を取り返して公の故郷関東へ運ぶ途中宇都宮公は病になりしかも世は足利のものとなる。ここまでと泰藤は岡崎の領地宮路町の犬頭神社の域内に塚を作り祠を立て柵策で囲んで義貞公の慰霊をなした、ちなみに犬頭神社はわが町の氏神でもある。 岡崎には足利の領地もあり、この追っ手を欺くためにこの塚はわれをすくった犬を弔う塚だとし足利の追及を逃れる。 以後使を作った者どもに犬塚の姓、柵を築いたものの子孫に柵木姓を名乗ることを許した。宮地町に犬塚・柵木姓が多くあるのはその子孫の皆さんだから、 さて、新田義貞公の御命日は7月2日と伝わる。今から686年前。 さてネットで調べると義貞公の墓は岡崎宮地以外に3つの場所が載る。以下のごとくに • 京都府京都市右京区にある滝口寺に新田義貞の首塚がある。 • 茨城県龍ケ崎市若柴町の金竜寺に、新田義貞の墓がある。 • 神奈川県小田原市東町に新田義貞の首塚がある。 いずれが正しいのかわからないがわが町では宮地町説をとり池の前に看板もたっている。」 しかし神道の世界はよくはわからないが正式な認定はないらしい。 しかしもうそろそろ700年祭が議論されてもよかろうし、その際にはこの犬頭神社も名乗りを上げて公への尊崇の念を表してもよいのではないか。子供たちの歴史教育のためにも。 昨日は岡崎市内東大友町の神社に妻と業者二人を連れて参拝してきた、むろん壬申の乱にて敗北なされた大友皇子(弘文天皇)終焉の地。 隣接する公民館に資料を求めたがなぜか近隣住民の方もご存じない。これには驚いた、これでは郷土愛も生まれてこない。 行事ばかり作っては身動きできなくなってしまうだろうが、国家愛郷土愛につながるものならできる限り行えるよう準備をしなくt お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.05.17 10:21:21
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