テーマ:本のある暮らし(3286)
カテゴリ:本
石牟礼道子・伊藤比呂美の対談:「死を想う」のサブタイトルは、「われらも終には仏なり」。
このサブタイトルが、私は大変気に入りました。 「梁塵秘抄」に出てくる一説らしい。 「仏も昔は人なりき。 われらも終には仏なり。 三身仏性(さんせいぶっしょう)具せる身と、知らざりけるこそあはれなれ(232)」(p173) 仏も昔は人なりき、かあ。 日々家族とこんがらがったり仕事でうまくいかなかったり掃除すらちゃんとできない身の私であっても、遠い未来に「終には仏さまになっている」と考えれば、このどうしようもないあれこれの体験も、仏さまになるプロセスのひとつだって思える。 今までのことを思っても、何でこんな目にあわなきゃならないのよお!的な体験は、すべて今の自分を形作るためになくてはならないプロセスだったと思う。 仲間はずれにされた子ども時代。 夫とのバトルにお姑さんとの行き違い。 気が狂いそうなほど大変だった子育ての日々。 友達がひとりもいなくて孤独だった日々。 み~んな必要なことだったなあ。 そう思えば、今現在の「どうにもならない苦」だって、「終には仏になる」身としては、必要不可欠なできごとにちがいない。 そんなふうに「未来から今を見る」という時間の捉え方を、「われらも終には仏なり」の一言は、うまく言い表しているなあ、と思ったのです。 (つづく) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.05.24 15:50:31
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