梅田神明宮・梅田稲荷神社
中曽根神社での参拝が終わった後に、そのまま東へ進んだ。順番として梅田稲荷神社が先だが、さらに東にある梅田神明宮は本務社。 梅田神明宮の正面の鳥居。 慶長年間で創建されたと言われるが。最初、地主神を祀っていた。明暦の大火(1657年)や宝暦10年2月に足袋屋の明石屋から出火し、神田、赤坂、麻布、芝まで延焼した「明石屋火事」の際に、芝神明宮(現在の芝大神宮)も被災された。そのため、いずれの火災の時、御神体が一時的にこちらの境内へ遷座されたことから、新たに神明社として建立され、のちに梅田神明宮と呼ばれるようになった。主祭神は天照皇大神、相殿は井上正鐵霊神。 井上正鐵は幕末時代の国学者、神道家であり、1834年に京都へ白川伯王家に入門し、伯家神道を修め、神拝式許状を得、白川伯王家の神職許状と天津祝詞太祝詞三種祓等の奥旨皆伝を受け、1840年から梅田神明宮の神職となったが、 寺社奉行より邪教の嫌疑がかけられ、妻の男也(おなり)、門弟三浦隼人夫妻と入獄された。井上正鐵は1843年に三宅島へ流され、1849年に亡くなった。1868年に白川伯王家より「禊祓霊社」の神号が贈られ、梅田神明宮内に「井上神社」が創建され、神として祀られる。正鉄を教祖とする教派神道「禊教」は、彼の門人である坂田鉄安らがその思想を纏め、立教したものであるという。 梅田稲荷神社の正面の鳥居。 祭神は宇迦御魂命。源義家の孫、六条判官為義の3男で、志田三郎先生(しだ さぶろう せんじょう)として知られる義広が治承4年(1180年)に建立したと言われる。旧社殿は昭和20年(1945年)3月の東京大空襲で焼失され、昭和28年(1953年)に再建された。 奥には、井上正鐵とその妻である男也、高弟たちの墓がある。井上正鐵の遺骨は、分骨により谷中、梅田、三宅島の三箇所にあるという。