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そんなに、けなしたり、ケチをつけたりせず、
お互いの句を褒めあったら、 もっと良い大会になると思うのだけど。 ---------+---------+---------+---------+--------- 深夜のNHKで高校生(5人一組)が、自作の俳句を読んで、 相手チームと勝負する「俳句甲子園」の様子が、放送されていました。 対戦方法は、一句 vs 一句。 お題に沿って、お互い一句ずつ読みあい、 相手の句に対して、制限時間内にディベートをします。 最終的に専門家らで構成される審判が旗を揚げ、 どちらの句が良かったか、勝負を決します。 これを柔道や剣道の団体戦のように5本勝負をし、 先に3勝した高校がトーナメントを勝ち上がります。 今どきの高校生が純粋に俳句を読み、 競い合う姿は、感心しました。 先ごろの事件などを見ていると、 高校生と俳句って、なかなか結びつかないもので……。 でも、句を読んだ後のディベートが、 どうにも「ケチつけ合戦」に聞こえてしまって、 僕は、それがとても不満でした。 「○○という言葉は、このお題に似合わない」 「字余りで、リズムを崩している」 「○○は、高校生らしくないのではないか?」 などなど。 高校生たちの勝ちたい気持ちは伝わってきましたが、 このディベートを聞いていて、 2つのことを感じました。 ---------+---------+---------+---------+--------- まず、一般的なものも含めて、ディベートについて。 日本人のディベートって、揚げ足取り、ケチをつける、 というものが多い気がします。 何かのバラエティー番組で、 小学生のディベート教室が取り上げられていて、 その中に出てきた子どもたちが、 「○○法の第△条に書いてあります」 「最初の○○と、次の△△には矛盾があります」 などと、言っているのを聞いて、 なんか恐ろしくなって、チャンネルを変えました。 そんなディベート教室に通っていたら、 人の言葉の揚げ足取りしか出来なくなるような気がして、 とても怖いです。 企業の交渉や、裁判なら、そういう言い方も分かるけど、 でも、やっぱ、嫌ですね。 ディベートや討論と聞くと、 国際評論家の岡本幸夫さんが おっしゃった言葉を思い出します。 『会議や交渉、それが企業でも外交でも、 ユーモアが大事なんですよ。 なぜなら、議論や交渉というのは、 相手を屈服させたり、無理強いするものでなく、 相手も自分も、ハッピーになるためのものだから』 ---------+---------+---------+---------+--------- そして、俳句も含めた文学について。 文学って、言葉って、人によって感じ方が違います。 だから、俳句甲子園で、「あの言葉が」「この言い回しが」 とディベートするのは、愚の骨頂です。 子どもの絵日記だって、芥川賞の小説だって、 同じ文学だと思います。 別の言い方をすれば、 同じ言葉(特に歌)を聞いても、 感動する人や、何も感じない人もいます。 指輪物語を書いたJ.R.R.トールキン曰く。 (ただし、井上の解釈により文章を修飾しています) 『作家が文章を書くというのは“半創造”なんです。 半分は、作者が創る部分。 もう半分は、読者がイメージで創る部分。 だから、こうだ!と決め付けるのではなく、 読者に創造する余地を残しておくんです。 すると、読者は空想に思いを馳せながら、 心を躍らせて読むことが出来るんです』 ---------+---------+---------+---------+--------- 僕が思うに、俳句甲子園の場合、 句を読んだら、ディベートや説明はしないほうが良い。 「この“ため息”という言葉に、 高校生の行き場の無い気持ちが込められているんです」 などという説明は、不要。 句を読んだ時点で、その句に対するイメージは、 読者に委ねられるべきです。 だから、お互い句を読んだ後、 笑っていいとものようにお客さんにスイッチを持ってもらって、 どっちが良い句か、多数決で決める。 それくらいシンプルで良いんじゃないかな? どうしてもディベートが必要なら、 相手の句をけなすのではなく、褒めること。 相手の揚げ足取りや、使った言葉への追求ではなく、 良いところを探して、素直に「良い」と言う。 そうして、もっと俳句を詠みたい、と思う人も増えるだろうし、 褒めあった高校生同士、友情が生まれると思います。 今のままのディベートでは、 未来の俳句界は、お先真っ暗のような気がしてなりません。 …………こんなこという僕は、甘いでしょうか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年09月11日 23時33分59秒
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