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雪香楼箚記

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アンスカ国文学会


2006年12月25日
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『峠』と『俄』に共通するもの。それは遠回しな皮肉を言ひながら主人公の人生に滑稽味を発見するといふ筆者の態度にほかならない。そしてさらに言へば、そのちよつと斜に構へた人物観の裏側に見え隠れする人間に対して司馬遼太郎が抱く興味と愛情である。
 そのやうな態度によつて書かれたこれらの小説を読むとき我々がしばしば感じるのは、ごく人間好きな人が他人の噂話をして楽しんでゐるといふ雰囲気であらう。人間が好きだから人間を書く。それもただ好意的に描くのではなくて都会人ふうの遠回しな皮肉を効かせた人間観による観察に基くものであり、その深いところに「人間はちよつとをかし味のある存在だ」といふ考へ方に裏づけられた人間肯定主義がある。そしてそこから滑稽味(巧まざる滑稽さをも含む)によつて歴史や人生を捉へる態度が生じてくるのだ。それゆゑに彼の扱ふ人物はいつでもいくばくかの滑稽味を伴つてゐて筆者のからつとした視点から描かれてゐるのであらう。
 人間の喜劇性。これこそ司馬遼太郎が追求してやまないものであつた。「あの人あんなことしてをかしいね。でも好きだな、ああいふ人間」といふのが彼の根本的な態度である。さういつた彼の前にあつては、人間を劇的存在として捉へ、やたらと悲愴ぶつたり(例へば「悲劇の英雄、河井継之助」のやうな)、歴史の無常を訴へたりするやり方はひどくつまらないものにしか感じられないと言へるだらう。それよりも都会人特有の喜劇性によつて人間を見る態度を全面に打出した『峠』や『俄』のやうな筆法のほうが遥かに興味をそそられるのである。知的なおもしろ味があつて、からりと乾いてゐて、大時代めいた悲壮感がない。その代りに人間の滑稽さがある。そしてこの喜劇性をとことん追求したのが『俄』であり、逆に悲劇性のなかに喜劇性を求めようとしたのが『峠』にほかならない。
 そこで冒頭の話に戻るのだが、かうした司馬遼太郎の人物観は、中村真一郎の言つた『源氏』における遠回しな悪意と共通するものなのである。
『源氏物語』が女房たちの噂話といふ形式で書かれてゐるのは周知の事実であるが、この古代小説を貫く語り手たちの態度は一にも二にも人間への興味にほかならない。娯楽の少い平安時代においては人間への興味を噂話によつて埋めるのが最大の閑つぶしであつたらうことは想像に難くないし、第一人間への興味がなければこんな長い噂語を語つたり聞いたり記録したりする女房が存在するはずがなく、従つて女房の噂話といふ形式が成立しなくなつて『源氏』はもつと別な様子の作品になつてしまふではないか。さういつたものがあればこそ「いづれの御代にか」と物語が語られ始め、登場人物たちがやはらかな悪意によつて皮肉られるのである。さう、ときには幾分かの滑稽味を帯びながら。
 これは司馬遼太郎が河井継之助や明石屋万吉を見つめるときの精神とひとつのものであると言ふことができるだらう。双方とも文明がある極みに達した都市社会のなかで人間への飽くなき興味が噂話といふ形式によつて流露し、人間を知的で批判的な(あるいは喜劇的とさへ言つてもいいやうな)態度によつて捉へるといふ点において、『源氏』と司馬遼太郎は一致してゐるのである。彼らにとつては、悲劇性によつてのみ人間を捉へる方法など田舎廻りの芝居みたいに泥臭くてとてもつきあひきれないのだ。何しろ都会人なのだから。そしてさういふ態度の奥にあるのはいづれも「人間といふのは誰でも滑稽な存在で、英雄でも凡人でもをかしな一面があるものなのだ。だから人間といふのは皆まとめて素晴しい存在なのではないか」といふ人間肯定主義であると言へるだらう(もしも悲劇性から人間を捉へるとすれば英雄だけが優れてゐることになつてしまふもの)。

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 近ごろまた『源氏』ばやりだと聞く。高い本がよく売れてゐるらしいし、紫の上、末摘花などといふ名前を知つてゐる若い女の子も珍しくなくなつた。そして司馬遼太郎のほうも相変らず広く読まれてをり、当節はやりの俳優によつて映画も作られてゐる。だとしたら私たちの社会はずいぶん知的で、文明的で、都会的で、かつは人間肯定主義ふうになつたといふことなのだらうか(いや、これは断じて遠回しな皮肉などではありませんが)。





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最終更新日  2006年12月25日 09時08分29秒
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