夕花を
永福門院
花の上にしばしうつろふ夕づく日入るともなしに影消えにけり
『風雅集』という鎌倉時代の勅撰集に収められている歌です。
勅撰集は八番目の『新古今集』(鎌倉初期)まで読めば上出来というもので、その後室町初期までのあいだに編まれた十三集については、かの折口信夫でさえ(いや、折口信夫だからこそ、なのか)「天から劫火が降りくだって整理をつけてほしい」と言ったほど文学的感興に乏しいものですが、そのなかで十四番目の『玉葉集』と十七番目の『風雅集』だけは特別、というのが、これもまた折口以来の定説です。
この二集は京極派と呼ばれた歌人たちが撰したものです。定家の曾孫にあたる京極為兼が主導し、彼の使えた伏見院の宮廷に、ごく私的なかたちでおこったこの新たな歌風は、和歌の常識からあまりにかけはなれていたために、当代の主流歌人からも、あるいは後世からも、長らく異端視されてきましたが、その実際は、冒頭にかかげた永福門院の一首のように、ほそみをきわめてさみしく澄んだ作風で、中世の美意識をあざやかに体現するものでした。
永福門院は伏見院の中宮。西園寺実兼の子として生れ、十八歳で入内。子はなかったが、伏見院崩御の後も、花園院(伏見院の子)、光厳院(孫)ら、後期の京極派の中心をなす歌人たちをよく教導し、一三四二年に七十二歳で亡くなりました。
「夕づく日」は夕日のこと(「影」は光を言います)。それだけ註せば、あとは何もつけたすことのない歌です。伏見院には「花のうへの暮れゆく空にひびき来て声に色ある入相の鐘」(風雅集)という歌があり(「入相の鐘」は晩鐘)、初句はここから影響を受けたのかもしれません。
この歌には永福門院の特色がよくあらわれています。ひとつは「夕づく日」という古語(この当時にあって、すでにこれはいくらか古めかしい言葉でした)を歌のしらべのなかに違和感なく溶けこませていること。京極派は『万葉集』に学んで、古語を積極的に歌のなかに取入れましたが、その多くはこなれない、荒っぽい詠みくちで、このことが他派の歌人からの批判の対象ともなりました。しかし永福門院に限って言えば、そうした京極派の通弊から免れたところがあります。言葉の選びかたに独特な感覚があったのでしょう。
ふたつめは「しばしうつろふ」「入るともなしに影消えにけり」というように、自然のうつろいに目をとめて、しかもそれを繊細に描きだそうとする態度を持っていること。特に永福門院のそれは、ぼんやりと眺めているのではなく、対象に心をひそめてするどく見守るがゆえに、ふと見過ごしてしまうようなかすかなゆらめきを、歌のなかに定着させてゆくところが独自であるといえるでしょう。夕日影がすこしずつ色をうつろわせながら、やがて消入ってゆく、そのやさしくも繊細な表情に目をとめているところが、彼女の詠作のおもしろさです。
みっつめは、ふたつめといささかの脈絡を持つものでありますが、彼女の対象を見つめるまなざしが、ほそく、さみしく、澄みとおっていること。そこに何らかの悲しさがあるわけではないのに、心をひそめて対象に徹するがゆえに、言うに言われないものさびしさが歌のうちから匂ってくるところに、この歌の、あるいは永福門院のよさがあります。彼女の歌を見ていると、人のこころは決して硬く、固定したものでないということを知らされます。硬く、固定してないがゆえに、たゆたい、ゆれうごく、その自由さと不安さが、観察のなかにものさみしい情感を匂いたたせるのではないでしょうか。
この一首、ふつうは満開の桜によそえて解される歌です。『風雅集』の配列からいっても、それが正しいことは言うまでもないのですが、しかしぼくは、七分か六分、まだ咲きそめたころのかたさを持った桜の「花の上」と読むのが好きで、いつもこの時期になるとふと思いだします。