尾張連の歌二首〈名は闕けたり〉
打ちなびき春来たるらし山の際(ま)の遠き木末(こぬれ)の咲きゆく見れば
『万葉集』巻八。
作者の尾張連については、よくわかりません。この歌、同じく『万葉集』の巻十に第二句を「春さり来らし」としたかたちで収められていますが、そこでは作者名不詳。『風雅集』『古今六帖』にもよみ人しらずとして採ってあります。もともと民謡のようなかたちで流布していたものを家持が採録したのかもしれず、何かの席で尾張連がこの歌を歌ったのをおもしろく思って書きとどめたために「尾張連の歌」という詞書を付したのかもしれません。家持もよく知らない人だったことは「名は闕けたり」と名前を書きおとしているところからもあきらか。
初句を「打ちなびく」と読む訓もありますが(原文「打靡」)、連体形にして枕詞ふうに扱うと途端に歌の調子が低いものになります。連用形に読んで、峰の彼方から、しだいしだいに春がやってくるさまを言ったものと考えるほうがいいでしょう。
「山の際」は、「山際」と言うても同じことですが、山と空との接する稜線のことです。古代の人々は、これを魂が往来し、異界からものの来る神聖な道であると考えていました。遠いところから、ふしぎなちからを持って春というものがやって来、峰づいたいに花を咲かせてゆく。桜という言葉はありませんが、いかにも桜のしずかに澄んだたたずまいにふさわしい表現です。
もちろんこの歌を、あかるく、無邪気で、素朴な歌と見てもいい。しかし「山の際」という言葉に着目して、うすぐらい万葉びとの心の奥処からただようようにうかびあがってきた詩として一首を読めば、そこにはまた違った味いがあります。さみしく、清らかに、どこまでも澄んだ、ほそみの歌の、はるかなはるかな祖先として、これを見ることもできるのです。