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雪香楼箚記

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アンスカ国文学会


2007年04月04日
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カテゴリ:カテゴリ未分類



 いらつめ(郎女、女郎)は、ふるい昔、若い女の人を指して呼んだ言葉でした。紀郎女は、紀の家のお嬢さん。もっともお嬢さんといっても、万葉集のなかに登場する彼女はどうやら二十歳を越しているようですから、女郎という呼びかたはこのころ、身分のある家の女の人への敬称に転じていたのでしょう。
 彼女が生きたのは、おそらく大宝から天平にかけてのころ(701年~748年)。万葉集に収められている歌のなかでは、もっとも晩い時期(第四期と呼ばれる時代)にあたります。当時の女の人の例にもれず、生没年ははっきりわかりません。名前も同様。ただ、たまたま第四期の代表的な歌人であった大伴家持と恋をして、贈答した歌のいくつかが家持の手控えを経由して万葉集に収められたために(万葉集の最終段階における編纂に、家持は深くかかわっています)、いくつか伝記的な事項をわれわれは知ることができます。
 万葉集に採られた彼女の歌の詞書には、次のような註がついています。


     紀郎女怨恨歌三首〈鹿人大夫之女名曰小鹿也安貴王之妻也〉(4・643・詞書)

     紀女郎贈大伴宿祢家持歌二首〈女郎名曰小鹿也〉(4・762・詞書)

     紀女郎裹物贈友歌一首〈女郎名曰小鹿也〉(4・782・詞書)

     紀女郎歌一首〈名曰小鹿也〉(8・1452・詞書)


後の三つは、六四三番の内容を抄して書いたものでしょう。六四三番の註の部分を訓読すると


     鹿人大夫の女、
     名は小鹿と曰ふなり。
     安貴王の妻なり。


まず「鹿人大夫の女」というくだりですが、幸にも万葉集には紀鹿人、つまり彼女のお父さんの歌が採られています。


        典鑄正・紀朝臣鹿人、衛門大尉・大伴宿禰稲公が跡見の
        庄に至りてよめる歌、一首
     射目立てて跡見の岡辺の撫子の花ふさ手折り吾は持ち去なむ奈良人のた
     め(8・1549)


鹿人が大伴稲公の別荘に呼ばれて、「この丘のあたりに咲いている撫子を、奈良の家に留守番している者のために手折って帰ろうと思います」と詠んだ歌ですが、稲公は家持の叔父にあたる人で、このころから紀家と大伴家には往き来があったものと見えます。おそらく郎女さんと家持が知りあったのも、そうした両家の交友を通してのことなのではないでしょうか。
 もうひとつ、この鹿人の歌は「憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむぞ」(山上憶良・3・337)式の宴の歌で、おそらく奈良に残してきた妻を詠んだものと思われますが、だとすればもしかするとこの「奈良人」は郎女さんのお母さんかもしれない(もちろん、そうでない可能性も充分にあるのですが)。史料には郎女さんのお母さんについては何も記述がありませんから、この一首は彼女の家族を考えるうえでなかなか重要です。
 次に「安貴王の妻なり」という記述。安貴王は志貴皇子の孫(一説に川島皇子の孫)、春日王の子にあたります。志貴皇子も川島皇子も、ともに天智天皇の子で、この系統の皇族は壬申の乱以降、傍流に位置していました。安貴王の伝はよくわからないところが多いのですが、万葉集に歌が四首入っています。なかに三〇六番は、養老二年(718年)、元正天皇に従って旅中に伊勢国で詠んだことが記されていますので、ここからすれば、生年はおそらく大宝初年(700年ごろ)を遡ることはないでしょう。妻となった郎女さんも、年齢にそれほど大きな差がなかったと考えれば、おおよそ大宝初年に生れ、養老年間(717年~724年)の前半、十六七歳くらいで彼と結婚したと想像されます。
 ところが、この旦那さまが後に事件を起します。養老年間の末ごろ、采女と通じて都を追われるということがあったらしい。万葉集巻八の五三四、五三五番の二首は、このとき王が詠んだ作ですが、その左註にこう記してあります。


     右は、安貴王、因幡八上釆女を娶り、係念極て甚しく、愛情尤も盛なり。
     時に勅して不敬の罪に断じ、本郷に退却く。是に王の意、悼び悲しびて、
     聊か此歌を作る、と。


「因幡八上釆女」は、因幡国の八上から奉られた采女ということでしょう。采女の制度は、天皇が側妾を介して国々の地霊を受け、支配の霊力を身につけるという古代信仰から起ったものです。天皇の支配に服した国は、からなず乙女を選んでこれを奉る。それゆえ采女は決して天皇以外に逢うてはならぬものとされていました。天智天皇から采女を賜って、藤原鎌足が「我れはもや安見児得たり皆人の得かてにすとふ安見児得たり」(2・95)と詠んだのは有名な話ですが、それほど「安見児」(采女)は「皆人の得かてにす」る(自分のものにしにくい)ものだったのです。
 「娶り」を、妻に迎えた、すなわち、采女の役を終えた乙女を天皇が安貴王に下げたとする説もありますが、おそらくそうではないでしょう。「娶り」は密通を婉曲に言うた表現で、だからこそ「勅して不敬の罪に断じ」という重々しい処断がなされた。「本郷に退却く」は、領地か、あるいは一族の出自の地に追放されたことを指すと思われます。





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最終更新日  2007年04月04日 11時29分16秒
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