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雪香楼箚記

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アンスカ国文学会


2007年04月07日
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カテゴリ:カテゴリ未分類



 『失われた時を求めて』の第二編「花咲く乙女たちのかげに」のなかに、語手〈私〉が、祖母のさまざまな好みを説明するくだりがあるのですが、そこにルービンシュタインの名前が出てきます。
 祖母はルービンシュタインがミス・タッチをした演奏を聴くと喜んだ、と〈私〉は語ります。彼のお祖母さんは、音楽にかぎらず、すべてが完璧にととのえられているものよりも、どこか無造作な感じを残したシックさを好んだらしい。ルービンシュタインのミス・タッチは、その象徴的な例です。
 ルービンシュタインは一八八七年の生れですから(ちなみにプルーストは一八七一年生れ)、「花咲く乙女たちのかげに」が出版された一九一九年には三十二歳。プルーストは右を〈祖母〉の回想めいた口調で書いていますから、おそらくルビンシュタインが二十代か、もしかした十代だったころの話でしょう。
 ご存知のように二十代のルービンシュタインは、一方でその技量を高く評価されながら、他方では演奏会ごとのむらが大きく、ミス・タッチの多いピアニストでした。ホロビッツの正確なテクニックに脅威を感じ、数年間コンサートを断って練習に没頭したというのは有名な話です。

 わたしたちはふつう、ミス・タッチを「してはいけないもの」「あってはならないもの」と考えます。ピアニストは、できれば楽譜に書いてあるとおりの音符を弾いたほうがいい。そして、そのことはおそらく、プルーストも、語手の〈祖母〉も、あるいはまたルービンシュタイン自身も、決して否定はしないでしょう。
 しかし、それではなぜ〈祖母〉はルービンシュタインのミス・タッチを愛したのか。
 もちろんひとつには、プルーストが小説のなかで書いている、あまりにも完全なものを醜く感じるという美意識を理由として挙げることができるでしょう。わたしたち日本人にとっては、『徒然草』の「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」以来、ごくなじみの深い考えかたですが、おそらく「花咲く乙女たちのかげに」が出版された一九一九年のフランス社会においては、この美意識はかなり洗練された、あるいは通ぶったものの見方として受けとめられたに違いありません。その清新さに、プルーストの独特なまなざしがあります。
 けれども、それだけではありません。わざわざルービンシュタインを名指ししたところに、ぼくはもうすこし深いものを考えてみることができるのではないかと思います。
 「してはいけないもの」をしてしまい、「あってはならないもの」が存在してしまうのは、それが、今、ここで進行しているものであるからです。たとえばレコードに録音したショパンのポロネーズは、絶対にミス・タッチをしない。固定されていない、生成の場に立会っている作品であればこそ、われわれはミス・タッチのような「してはいけないもの」「あってはならないもの」に出逢える。
 時間というものに関するプルーストの基本的な発想は、まさにこれと共通します。彼は、「現在によって振返られる過去」といった、固定した時間、始りと終りを区切った、どこで何がおこるかをすでに知らされている時間というものを扱いません。プルーストにおける時間は、つねに生起し、流れてゆく存在です。今、ここに、わたしがいるということだけがたしかにわかっていて、しかしそれがどこからやってきて、どこへ向かうのかについては、だれも教えることができない。未知の前に立つスリルが、プルーストの時間にはあふれています。

 いささかややこしい話に立ちいりました。ルービンシュタインのミス・タッチに話を戻しましょう。
 披露宴というのは花嫁花婿を褒めるためにある場ですから、こういうことを言うにはいささかふさわしくないかもしれませんが、Mさんご本人も――いささか自虐的に――認めていらっしゃることですから、遠慮をせずに申しあげますが、ピアニストとしてのMさんは、あきらかにルービンシュタイン型です。しかも、二十代の。……つまり、言いかえれば、やたらとミス・タッチをする。
 しかし、もしここにプルーストがいたとすれば、じつにそのミス・タッチにこそ、人間が生きているということの意味があるのではないかと言うに違いありません。
 いかにMさんであろうとも、CDのなかでミス・タッチをすることはない。彼がミス・タッチするのは、どこへゆくかわからない、どこから来たのかわからない、〈今〉という時間のなかで孤独に音をつむぎだしてゆくからです。ミス・タッチは、もとよりだれしも望むところではありませんが、しかし同時に何かが生まれてゆくスリルの証拠でもある。Mさんが懸命に生きて、ピアノを弾き、そしてそれをわたしたち聴衆の一人ひとりが同じように生きて、聴いていればこそ、ミス・タッチというものが存在するのです。CDのような固定された時間のなかでは、このスリルを味うことができない。――だから、〈祖母〉はルービンシュタインのミス・タッチを大切なものとして喜んだのでしょう。
 ミス・タッチにこそ、人間が生きていることの意味がある。
 結婚というのも、人が生きいるからこそ成りたつという意味では、似たようなものです。人が生きることは、ピアニストがソナタを弾くのと同じようなものでありまして、いくら気をつけていたってミス・タッチのようなものが生れてくる。ことに伴侶を得て、二人で生活を築いてゆくのであればなおさらのことでしょう。お互いに気持がすれちがうこともあれば、二人で力をあわせてさまざまな難事に立ちむかわなくてはならないこともあります。
 しかし、Mさん、Cさんには、ぜひともそのミス・タッチを楽しんでいただきたい。ミス・タッチ「も」楽しむのではなくて、ミス・タッチ「をこそ」楽しんでいただきたい。ミス・タッチには、生きることの喜びがつまっています。生きているからこそ味える楽しさがあります。われわれが、Mさんのコンサートで、ミス・タッチを耳にするときのように。

 ……どうも年寄の話は説教くさくなってしまって恐縮ですが、Mさん、Cさん、本日はまことにおめでとうございます。どうぞ末永くお幸に。





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最終更新日  2007年04月15日 14時28分01秒
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