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テーマ:心の病(7311)
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二週間前、息子と「ゲド戦記」を見てきました
映画自体には感動しなかったけれど、あらためて自分の「生」と「死」について考えさせられました 私は「死ぬ事が怖い」んじゃない 「生きる事」が怖いんだと分かりました 何故、「生きる事」が怖いのか 見えない将来の不安もあります 大切な家族を捨てて、幸せだった家庭を捨てて、自分は何をしたらいいのか分からなくて、信じるべき相手とこれからどうなるかが不安で、生きていくのが怖いんだ、と言う事が自分の結論でした この2週間、精神分析の本や宗教の本などを読みました 自分は本当に生きていていいのか、疑問に思えてきました 精神分析のやセラピーの本を読めば、病気を治すことも可能だと言うことも分かったけれど、宗教の本を読んでいると、自分は生きるに値しない人間ではないかという気持も湧き上がってきて、自分ではどうにも収拾できません 私が最も自分をそう思わせたのは、「生長の家」開祖、谷口雅春氏の、この言葉です 色情の逸楽は絢爛な色彩をつけて人間の眼の前に乱舞する。そして「これが人間の自由である。楽しむのが人間の権利である」と言って人間を誘惑するのである。人の妻を奪い、人の夫を奪い、子供を振り捨てて自分だけの快楽を追い、そして結局その人の魂は苦杯を嘗めさせられて、短時日の快楽のために、永遠に魂の苦痛を味わうのである。 私にはとても痛い言葉です と、同時に、私は小さな頃から、ひとつの願がありました それは自分のことを理解し、愛でてくれる人が欲しいと言うことであります そしてその事の為に私は、生きてきたはずでした 元夫は、私にとって、最高の伴侶の筈でした その為に私はずっと元夫と共に、多大なる苦労をしてきました (他の人からしたら、ちっぽけな苦労かもしれませんが) そして、一生、元夫と共に生き、息子の成長を見守る事が私の幸せだったんだと思います けれど私は、それを捨てることになりました 理解のない元夫との生活の中で、うつ病、摂食障害などが酷くなるばかりで、どの病院の医師に診察してもらっても 離婚すれば治る と言う診断を下されました そして、32条の改正によって、経済的な理由や、色々な事情があいまって、離婚という結果を出しました けれど、病気は治りませんでした 私の病気は薬や医師の診断では治せないものなのかもしれません 今の先生とも、お別れがやってきました 病院側の方針か、心療内科をやめることになってしまったのです 先生の新しい病院は教えてもらいましたが、通うのにはしんどい距離です 普通の病気なら、先生についていくだろうけれど、こういう病気ではちょっと無理だと判断しました これから新しい病院を探さなくてはなりません 不眠症がある限り、私は病院から開放されることはないでしょう 「死にたい」と言う気持はいつでもあります この気持が止まる事があるのかも不明です けれど私は今、生きています 薬を飲みながらでも、仕事をしています 「死にたい」「辞めたい」と言う気持をこらえて、生きています そんなにまで思いつめていて、何故死なないかと言えば、やっぱり、どこか心の奥で幸せを望んでいるからかもしれません 何が幸せかは人それぞれですが、私にとっての幸せは心休まる日々を過ごすことです その為には病気で床に臥せっているだけでは手に入れる事が出来ません 人は何かを手に入れるためには、それだけの努力が必要なのです そして、それを誰かと分かち合うことも、必要不可欠だと私は思います 一人で頑張っているだけではいつか息切れして、倒れてしまうでしょう それを支えてくれる人がいて、その人を自分が支えて、お互いにその関係を守れる相手 そんな人と出会て家族となれたら、それが最高の幸せだと私は思います 今も私は「生と死」について、毎日考えます いろいろな物を見聞きし、これからも悩み続けるでしょう 答えはでるのかは分かりません でも、今の私にはそれしか出来ないのです お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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