「溺れ眼」日々ノ十夢
溺れ眼 日々ノ十夢深い翠に静まった昼下がりの階段をいちだん にだんくだりくだる有様がようく見れば 視るほどに君の黒髪のやうに感じたので掃除当番の、こぼしたてのソレがこちらを目指してそろり ひたり近づいて来やるる一部始終につい今しがた記憶した 奥ゆかしい左眼或いは、嫉妬深い右眼を思い起こさずには居られなんだ。じわり じゅんわり足の 爪先の 両脇あたりを包み隠す上履きの繊維をごくごく滑らかな過程を経て侵してゆくソレとさっき、この顔面に付属した唇に重ねられた君の程よく湿り気を帯びた唇(薄すぎ厚からずの低反発な君の唇)とが、寸分違わぬ性質であったが故にソレが、君自身ですら制御不能であらう脅迫めいたあの!唾に感じられて堪らなくなり、わたしは思わず喉先からひつ! と素っ頓狂な音階を発音して仕舞う(ああ迂闊にも)それ其の音は、うすぼんやりとした深い翠色の空間にたちまちに閃光を渇っと浴びせきったかの如く発っとして鮮明であり、屹っと現顔をしてすっかり覚めんばかりに響いて渡るものであった。熊蝉の鳴き喚く自我に負けぬやうにくわんくわんと発熱しやる太陽ブラウン管に閉じ込んだまやかしに似て無力と化すこの立方体の内部ではわたしの視界は無限スコウプであるから重力にまかせ、目に蓋をせざるを得なんだ。すぐ階上の教室内からであらう洋琴の低い弱音が耳たぶを撫ぜては、ななめ後方に通過するのも校庭の土埃にまみれた硬球を、はじき返す金属音が窓やら回廊を縫い抜け、この場に届くことも目前にて掃除当番が思わずついた微かな溜息でさえ もはや何処か遠い世間の事柄であるやうな気がしてならなんだ。現代詩手帖 2008年6月号