ドストエフスキーの「白痴」について
ムイシュキンは、恋愛で二人の女性の間で迷って、どちらか一人を選べないので不幸になります。なのでこれを克服しないと幸せになれないわけです。選べないというのは、幼児性の現れで、そして未開・古代共同体的な感性に浸潤されている状態だそうです。つまり、現代の人間の心というのは当然、幼児性も未開・古代共同体性も混ぜ合わされて持っているわけですが、幸せになれないことが、幼児性や未開・古代共同体性に浸潤されていることと同義だというわけです。しかし現代人の心にとって、幼児性や未開・古代共同性的なものは大事ですから、問題は、こうしたものを保存したまま克服して幸せになるにはどうすればいいか、となるわけです。「白痴」の場合は、ムイシュキンとラゴージンは現実的には一人の人と考えられますから、二人が激突することによって、象徴的に克服されています。現実の人間の場合は、二人を弁証法的に止揚するのか、逃走線を引いて二方向に突っ走るのか、わかりませんが、いずれにしろ、その人個人の個性の中で、克服していくしかないわけです。