蓬莱曲(北村透谷)
人は人生のどこかで多かれ少なかれ分裂した心を持つようになります。透谷はその分裂の度合いが相当激しかったようです。劇詩「蓬莱曲」において、「我」と「おのれ」の分裂として表現しています。我とは現実生活で平気で顔を晒して生きている心のこと。おのれとは現実には生きることが難しい心のこと。評論「各人心宮内の秘宮」では、おのれのことを「秘宮」と名づけています。おのれとは次のようなものです。忌はしきもの這へるを認る、嫌はしき者住めるを認る、醜きもの居れるを認る、激しき性の者歩むを認る、物思はするもの、あやしきもの、満ち足らはぬがちなるもの大罪大悪の消ゆるはこの奥(秘宮)にあり、大仁大善の発するはこの奥にあり、秘事秘密の天に通ずるはこの奥にあり、沈黙無言の大雄弁もこの奥にあり、永遠の生命の存するもこの奥にあり、この奥にこそ人生の最大至重のものあるなれ。現実生活で堂々と顔を晒して生きていくには、このおのれを抱えたままでは生きるのが辛すぎます。透谷は、おのれを捨てたいと願い、けれども捨てるのは難しく捨てられないと言います。捨てられないなら、それでも捨てたいと願いながら、おのれを抱えたまま平気で現実を生きていく他ありません。しかしそれはとても困難な道行です。病気になって人生を棒に振るか、はたまた自殺するか。透谷は「蓬莱曲」で自身の生涯を予言したかのように、3年後自滅して自殺します。この困難な道行をハートセラピーによって克服することは可能でしょうか?それは不明ですが、可能だと信じて、ある患者さんは6年もの長きにわたって受け続けてくれているのでしょう。