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神様を心に受け入れた私は、日常随時「祈る」ことをします。 祈りは私にとって、神様との会話です。 私の心が神様の御心へと繋がる唯一の手段です。 私たちにとって、祈りは呼吸です。 激しく働く時に呼吸も激しくなるように、 祈りも強くなります。 悲しみに沈む時、深く重たい呼吸をするように、 祈りも深長で狂おしいものとなります。 喜びに沸く時に鼓動が高鳴るように、 祈りも高らかに感謝の思いに溢れたものになります。 また、自分以外の人や、物事のために祈るときには、 心を全開にして、持てる限りの優しさや思いやりを 神様に捧げるように、穏やかで落ち着いた祈りになります。 でも、どんな場面にあっても、どんな思いを抱えながらも 祈りは、祈りでなければなりません。 感情の噴出や、嘆きの吐き捨てで終わってはいけないと思うのです。 どんな時でも、場面でも、天に居らっしゃる父なる神様に語りかけます。 哀しみも苦しみも喜びも感謝も、包み隠さず神様の御心にゆだねます。 嘘も見栄もしません。遠慮も割引もしません。 罪、と感じても、叱られそうと不安でも、図々しいかなと思っても、 神様には100%の真実、本音をさらけ出します。 神様はかならず全てを聴き入れてくださいます。 神様は叱ったり罰したりしません。 罪は赦され、苦しみは吸い取られ、そして共に喜んでくださいます。 神様は、必ず答えをくださいます。 神様は、突き放したり諦めたりなさいません。 だから、祈ります。 日常の些細なことも、大きな出来事も、祈って、 神様に一日の全てを、ゆだねます・・・・・でも、 私はその祈りがとても、へたです。 天の父なる神様に呼びかけることから始まり、 自分がその時祈りたい事柄や思いを、言葉にすることが とても苦手です。 胸にいっぱいいっぱいの思いを言葉に置き換えて 口にすることがとても苦手です。 こうして文章でゆっくりと何かを表現することは、 楽ちんでできるのですが、、、困ったもんです。 特に、教会でご一緒する方々のために、 ご自身の御健康やご家族の事や、お仕事のことなど、 心配や不安を祈ることによって、 神様と共に取り除く手助けをしたいと、思うのに、 真底からの気持ちを祈りの言葉にかえることが、 うまくできないのです。 課題です。 長くクリスチャンであられる先輩方のように、 きっと上手に言葉にだして、祈れるようになること、 それが私の課題です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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