それは突然の出来事だった。
2日の午後、一緒に住んでる私の母が二階にいた私を呼んで電話が聞こえないから代わって欲しいと言う。
我が家は二世帯なので下には私の実家の電話、二階は私の嫁ぎ先の姓の電話と言う回線になっている。
わざわざ下のリビングに降りて行って電話を代わると私の母方の伯父だった。
なんと母の姉(私の叔母)がさっき亡くなったと言う。
さっき??
真昼に突然の自宅での急死、亡くなって2時間くらいしか経ってない・・
顔を見たければ明日にでも来たらいいという叔母の娘(私の従妹)の伝言だということだった。
母はあまりの突然に驚きでショックで体調が悪かったのがさらにショックになり、うつぶしてしまい、「生きてるうちに話したかった、顔が見たい、信じられない・・・」などと苦痛の表情。
そして次の日にばたばたと両親と私たち夫婦は夫の運転する車で弘前方面の平川市田舎方面の自宅へ向かった。
その日はお日様がキラキラと輝いてまぶしいくらいのいいお天気。
途中早めの昼食を「アップルランド温泉」で食べて家に向かう。
しかし、周りがすべて山とリンゴ畑に囲まれた雪の田舎の細道は皆どこも同じ風景に見え、ついには迷い、最後は道を歩く人に尋ねたら「ああ、あのおばあちゃんの家は・・・」と教えられやっと到着。
お棺に横たわる仏様の姿を私は本当に久しぶりに見た。
私の母は涙目でみつめ「姉の顔と違う」と一言。
母の心には喧嘩したり、笑ったりしてきた昔からの姉と妹の今までの記憶の中の姉の姿が染みついていて、そこにきれいに死化粧をして横たわっている姉は別な人に映ったのだろう。
少し話してその日は青森に帰宅。
そして、次の通夜葬式は?となったが、両親は二人とも最近風邪気味でその日もあまり体調がよくなかったので、葬式にだけでいいから私と夫に行って欲しいと言い、香典なども預かり、私が法事の席にすわることになった。
葬式の日もこれも又キラキラとお日様のまぶしい雪が全くちらつくことのない穏やかな日で、白い雪景色が輝いていた。
葬式はさすがに自宅の田舎では無理なので黒石市のセレモニーホールだった。
たまたま同じ姓の人の葬式が同じ敷地内の小さな建物の方でもあったので、最初間違ってそちらに行ってしまってハプニング。
そして、私と夫は受付を済ませて中に入る。
なんと、高齢の女性の葬式にしては大きな会場でりっばな仏祭壇に驚いてしまった。
おもむろに夫と二人でまずは遺族に焼香をと前に行って挨拶した後、なんと遺族席にいた喪主の妻である私の従妹が小声で「ここに座って」と言う。
従妹はこの家の一人娘で婿養子を迎えてるので、私は母の代理ということなんだと後で悟った。
私の隣にすわっていた彼女の子供は小学3年生の男の子だが、お行儀よく両親の作法に従っているのを見習って私も初めて遺族席に座る経験をしたのだった。
その従妹は私よりも10歳近く年下だが、いろいろあって43の時に結婚出産なので子供が小さい。
叔母は、最初の旦那さんにまだ子供が小さいときに死に別れ、二人の娘たちをその嫁ぎ先へ置いて再婚、その娘たちはもう65過ぎているが遺族席ではないところに二人並んですわっていたのだった。
お経が流れる中、母と叔母の絆を断片的に思い出していた。
私の母は私がまだ小学校にも上がる前に脳腫瘍になり、新潟の病院に入院した。
大変な病気の母の付き添いやら、幼かった私と弟の面倒を見てくれた明るく活発で神経細やかな叔母だった。
叔母は折り紙でユリの花を作るのがうまかった、若くてきれいだった、字が上手かった、りんごなどたくさんのものをいただいた。
従妹には私のお下がりの着物などをあげた記憶もある。
法事の食事の席でお酒を注ぎに来た従妹と初めて今回いろんな話をした。
私の弟の子と歳が一つしか違わないけど、全く成長具合が違うのを改めて感じ、彼女に弟の子の障害の話をしたとき、初めて彼女は打ち解けてくれた。
「初めて聞いた」と彼女。
自分も遅い出産だったから障害のある子が産まれることを当時本当に心配したことなど。
こういう話は親がいたら絶対に出なかったろう。
そして従妹は「生きてるうちに青森に連れて行ってあげればよかった・・・」と。
血のつながりのある従妹と大人になってこうして初めて今回話をかわしたのだった。
もちろん、従妹でも叔母が置いてきた従妹とも話せたし、叔父たちとも蘭の花の栽培が趣味の話題で盛り上がったりした。
叔母は風邪からインフルエンザを引き起こし寝込み、昼すぎに再び病院に行こうとして見に行ったら既に亡くなっており、急な心肺停止という診断だったらしい。
たくさん物があって、片づけていないのに、昼の食べた後も自分で洗い、洗濯機に自分の汚れ物を入れて回し、亡くなっていた時に洗濯機がまだ回っていたという。
人に一つも汚いものを見せたくない、迷惑かけたくないと言う人。
でも昔から大好きだった踊りのビデオテープをこっそり見ていて誰にも言うな、自分が死んだら皆捨てろと娘に言い残していたらしい。
行年87歳、立派な最期であったと思う。
上の数枚の絵は、
両親と一緒に昼食をとった
アップルランド温泉の廊下に
飾られていた弘前のリンゴにまつわるお話である。
リンゴの里で亡くなった叔母も、
やさしい「りんご観音様」になって、
これからずっと私達を見守ってくれることだろう・・・