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カテゴリ:思考
しばらくぶりのブログだ。
私の頭はいろいろな出来事と思考で今までとは違った経験をしたことでグルグルとずっと落ち着かなかったし、今もそうだ。 人のブログを読むことも最近は全くと言っていいほどなく、TwitterやFacebookでは時折なにかしらつぶやいていた。 私の母が3月に入って大変な病気になった。 その病名がわかるまでと治療までの経過が大変で自分の体が自分の体ではなくなっていく感覚さえもしていた。 3月1日の午後のことだった。 父が不安そうに二階に上がってきて「母さんの帰りが遅い、歯医者に行ったけど電話してみてくれないか?」と言う。 父は何年も前から耳が遠く電話は苦手なので私は電話してみた。 そしたら病院は出たと言うが、歯医者の先生は母も耳が遠いので本人に手紙を持たせたと言う。 その内容まで電話で聞いたところ歯の痛みと本人は言うが、自分の見立てでは三叉神経痛であると思うが、ステロイド系の薬は大変強いので危険なのでこちらでは出さないので専門で診てもらってと言われた。 その後、間もなく本人は帰ってきた。 が、なんとなく耳が聞こえないような、額が赤いような気がした。 手紙を見たらなるほど電話通りのことが書いてあった。 その日は金曜日だったので様子見。 3月4日(月)になってから母の行きつけの内科へ父が運転して母を連れて行った。 そしたら風邪だろうということで風邪薬を5日分もらって血液検査をして様子見だった。 母はその間も耳が痛い、ふらつく、とずいぶんと苦痛を訴えていた。 3月8日(金)風邪薬が切れたので今度は私が初めて付き添って父の運転で同じ内科へ行った。 そこで母の症状が前よりひどくなったので神経専門がいいと言われ紹介状を書いてもらって県立病院の脳神経内科へそのまま行った。 そこで頭部CT、採血をしたが、異常はなかった。 しかし、母は耳が全く聞こえなくなっていて、声も出にくく水もうまく飲めない、ふらついて歩くこともままならなくなっていたので車椅子で病院中移動の日だった。 脳神経内科の医者は三叉神経痛に効く薬はあるが、強すぎる薬で高齢の母には危険なので耳が聞こえないならまずは耳鼻科へ行ってくださいと言った。 しかし、あいにくその日は県病の受診時間を過ぎていたので近くの耳鼻科でもいいから早く診てもらうように言われ紹介状を持ってその足ですぐに私の行きつけの耳鼻科で連れて行った。 そこの耳鼻科で言われたのがなんと「耳のヘルペス」だろうであった。 母の麻痺側の耳の中にかさぶたができていたのだ。 おそらく内耳がヘルペスに侵されて湿疹がつぶれたあとだったのだろう。 母の左の耳はヘルペスに侵されていたことがやっとわかったのだ。 右の耳にも耳垢がたくさんたまっていて取ってもらったが、余計聞こえなくなっていたようだった。 しかし、この病院では聴力を測っただけで薬は敢えて出さなかった。 県病に又行くことになるであろうから強い薬を自分で処方するにはためらわれたのであろう。 又県病への報告紹介状を持たされた。 実に一日に三つ病院に行ったのに・・・ 3月9日(土)母は血圧の薬が切れていたのに気付いて騒ぎ、再び内科へ行ったがここでも経過報告のみでいつもの血圧の薬をもらっただけ。 3月11日(月)になり、再び県病へ。 まずは脳神経内科へ行ったが、ここで近くの耳鼻科の紹介状を見せるとようやく薬が処方された。 母は37キロしかないほどやせ細っている小さい体で87歳なので薬の量を通常よりも抑え気味にウイルスを抑えるステロイド系の薬を7日分と他の薬を3日ごとに3錠、2錠、2錠へと数を減らしていく飲み方で7日分。 そして、そのまま同じ県病内の耳鼻科で受診。 聴力は両耳ともほとんど聞こえないほど低レベルではあったが鼓膜は異常なしだった。 3月18日(月)1週間経って神経内科の薬が切れた頃、先に県病耳鼻科へ行った。 そこでは顏に電流を流しての筋肉検査をしたが、グラフ上では麻痺のある左顔面がやはり悪いようだった。 この耳性ヘルペスは大変怖い病気で顔面に一生麻痺が残るとのことだった。 治すためには発病してから1か月以内に手術という方法があるらしい。 神経が変性してしまう前に行わなければならない手術だそうで急がなければ意味がないらしい。 しかし、それはかなり危険な手術だと思った。 ちょっとでも他の神経を傷つければ障害が残ることは間違いないのだ。 脳神経に近い耳の奥の骨の内側を削って神経の圧迫を取り除く手術だそうだが、全身麻酔で4時間ほどの大手術で大学病院でなければできない、母のような高齢者には命にかかわるから危険だと言われ絶対にやめたほうがいいと言われたし、多分向こうも引き受けないだろうと言われた。 結局、一か月に一回耳鼻科に来てもらい、半年くらい薬を飲み続けるように言われ、神経のための薬を処方され、顔面マッサージをするように教わり、念のためにと脳のMRI検査を4月初めに予約した。 そして今度はそのあとそのまま同じ県病内の神経内科へ。 そこで、目薬と前回の薬を3日分今度は1錠に減らしてもらったが、やはり母は高齢だから手術はしないほうがいい、だけど麻痺は残るよと言われた。 母は耳が聞こえないのでボオーと目を見開いていた。 この病気は顔面麻痺の方の瞼が閉じなくなってしまうため人工涙液の目薬が必須らしい。 そして、再び院内の耳鼻科へ戻って予約のMRI検査の注意説明を受けた。 そこで聞いたのが母が以前(とは言っても昭和36年)に脳腫瘍の手術を受けたことがあり、その時の金属でホッチキス留めしているのがCTでわかっていたので今のMRIの性能の良い3テスラーの機械では磁気が強すぎて頭が焼けてしまうということらしく従来の1.5テスラーの古い機械で撮ることになった。 その間行きつけの内科にも行ったが、物を飲み込みにくい、目が痛い、耳が痛い、ふらつく、寝汗をかく、口の中が痛い、味がわからない・・・ 母は私につかまってよろよろしながら歩かなければならず、病院では私は通訳のような役目であった。 4月2日(火)MRI検査をした。 そのあと耳鼻科で診察の結果、異常はなかったのでホッといた。 その後院内の耳鼻科へ行き、3か月分薬をまとめてもらった。 その二日後の4月4日(木)に今度は神経内科へ行ったが、この日初めて車椅子を使わず支えて歩かせることができたが足取りはおぼつかなく私につかまって歩いていた。 目薬を連休明けまでの分とたっぷり出してくれたが、本人が目の痛みを訴える。 私は目専門ではないのでと言われ、院内の眼科には行く余裕がなかったので、ついでに母が以前に白内障と緑内障の手術をした眼科へそのまま連れて行った。 眼底検査等悪くなかったが、軟膏も乾かないためには必要と言われもらった。 しかし、この軟膏のせいで家族騒動が・・・(*_ _) 母が勝手に加減しらずにたっぷりつけすぎて目がぼやけて腫れたのだ。 ほんの少しだけの意味がわかっていなく、母に2人で注意したら若い頃は大人しかった母が最近は癇癪を起して猛反発で頑固に言い訳をして半泣きする。 すると亭主関白だった父は最近は「わ(自分)の言うことを何もきかない」と言って困り果てて私に助けを求めに来ることが多くなった。 眼帯のガーゼが黄色まみれで驚いてしまい、ベビー綿棒で少量ならいいかと父にやらせたがやはり腫れるようなのでやめさせた。 それなのに父がベビー綿棒がおもしろいのかつけたがり結局私に「腫れてしまった」と不安気に言いに来て「やめなさいって言ったでしょ!」と今度は私が父を怒る羽目に・・ ヤレヤレ疲れた・・・"(-""-)" 最近・・・ 私は週に二回は母の為に昼に風呂を沸かして母の背中を流してあげて、髪を洗って乾かしてあげている。 母はほとんどの時間、横になったりして休んでるが、ご飯支度と洗濯はしている。 父は母が書いた買い物のメモを持ってスーパーへ車で買い出しに行っている。 病院へは私の夫が運転して私が付き添い。 父は満91歳なのにまだ運転している。 昨今の事件を思うと心配だ。 実際病気の母を助手席に私が後部座席に座っていた時、雨の日だったが窓の閉め忘れに気を取られすっかりパニックになって運転に集中できなくなって後ろの車からクラクションを鳴らされたときはヒヤッとした。 私は後部座席から「危ない!窓なんかいいから運転に集中して!」と父に怒鳴り事なきを得た。 それ以来病院には夫の運転と決めた。 母は先日米寿を迎えた。 左顔面麻痺で左目見開きのまま口も右に曲がって発音もはっきりしなくなって顔が変わってしまった。 本人の早めの病気の自覚訴えと周りの判断、そして何よりも本人が病院に素直に連れて行くと言ったら行くと言う姿勢が大事だと思う。 母は俳句が趣味のせいで前傾姿勢が多く、本を読んで夢中で目や耳が悪いことに対して私から見れば真剣味がないように思われていた。 それを言うと母は父と私に烈火のごとく怒り狂うのである。 母にとっては顏よりも大事なのは俳句の世界らしく、それができないのが一番辛いらしい。 もっと早く病院に行ってればもっと早く薬を飲んでいれば・・・と思うのであるが、これが母の人生らしい。 父の先日の大腸内視鏡検査結果もポリープありと言えども取らなくてよいものだそうでまずます。 それにしても夫婦で88、91で健在で家にいるなど幸せな夫婦だ。 「これも娘夫婦と同居なればこそ、あんたの歳で夫が生きているなど幸せ者だ」と母に言うと「本当だ」としんみりと言うのである。。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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