5・3記念最高協議会での名誉会長のスピーチ
ランキング参加中いつも応援ありがとう!勝利の劇を!さあ今日から一緒に!人生は戦い!一、人と会い、人と語る。そうやって私は、友情を結び、英知を集め、平和への道を開いた。 イギリスの大歴史家トインビー博士との出会いは忘れられない。博士は、子息に、こう語っておられる。「人生は闘争なのだ」「安閑としていては何も得られない」(黒沢英二訳『現代人の疑問』毎日新聞社) 戦う人がいなければ、何一つ、つくれない。私は、だれよりも、一番、試練を受け、一番、悪人から憎まれ、それを乗り越えて、今日の盤石な学会を築いた。死にものぐるいで、恩師・戸田先生に仕えた。最大の苦境のなか、やっかいな交渉に体当たりでぶつかった。なかには、「あなたの誠実さには、頭がさがりました」と言って、味方になってくださる方もいた。今も心に残る思い出である。 私は、すべてを恩師から学んだ。「自分なんかは、まだまだだ。仏法の『ぶ』の字もわかっていない。だから学ぼう。勉強しよう」 ひたぶるに、師を求め、最高の哲学を求めていった。若き日から愛読してきた武者小路実篤の小説にこういう言葉があった。「自分は師によつて救はれたものだ。師があつて自分の一生があるのだ」(「幸福者」、『武者小路実篤全集第四巻』所収、小学館) これが弟子の心だ。わが人生は、師とともに!師のために!・・・ここに永遠の勝利の軌道がある。反対に、謙虚な気持ちを忘れたら、成長は止まる。立場が上になるほど、厳しく自身を戒めなければならない。幹部だからといって、人の意見も聞かない。胸襟を開いて、相手の懐に飛び込んでもいけない。それは独善だ。 「あの人に本当の大事な話はできない」と思われるようでは、幹部失格といわざるをえない。真に広布の責任者としての自覚に立つならば、わが地域の全同志を抱きかかえ、勇気と希望を贈っていく。たとえ一人でも、少しでも苦しんでいる人がいれば、駆けつけて支え、励まし続ける。その慈愛がなければならない。 一人も残らず幸福に!その祈りこそ、仏法の指導者の根幹である。虚栄や権勢に、とらわれてはならない。広布の同志を大事にすることだ。自分がどうあれ、学会員が幸福になればいい。こう決めて私は生きてきた。このことを、若き皆さんは、よく覚えておいてもらいたい。 嵐の時こそ!一、広布の途上には、必ず難がある。法華経に御書に仰せの通りだ。 昭和32年の「大阪事件」も、そうであった。私は、まったくの事実無根の容疑で投獄された。法廷で4年半、戦い抜き、師弟の勝利を満天下に示した。 その間、責任ある立場にもかかわらず、卑劣にも、裁判のゆくえはわからないなどとうそぶいた、臆病な人間もいた。いざという時に、その人の真価が分かる。 昭和54年4月24日。私が会長を辞任したとき、驚きと怒りに燃えて、駆けつけた同志がいた。「先生、会長を辞めないでください!」「どうして辞められるのですか!」「だれが辞めさせたのですか!」・・・その真剣な紅涙したたる叫びを、私は生涯、忘れることはできない。 嵐の時こそ、師とともに殉じていこう!それこそ、真の弟子の道である。そこに魂の劇が光っていくものだ。 正義なるがゆえに迫害される。これが歴史の常であった。人権の世紀、真の民主主義を築くためには、民衆が、もっと強く、もっと賢明にならなければならない。民衆を裏切るな一、私がお会いした、南米チリの哲人政治家エイルウィン大統領は、こう語っていた。「権力には『倫理』が伴う必要があります。権力は人々を『善』に近づけるためにあります。『悪』に近づけるためではありません」 その通りだ。軍事独裁を倒し、民主化を成し遂げた大統領ならではの警句である。大統領が師と仰ぐ、フランスの哲学者ジャック・マリタンは言う。「善い政治の第一の政治的要件として、政治が正義にかなうものでなければならない、ということは真理である」(久保正幡・稲垣良典訳『人間と国家』創文社) 正義といい、倫理といい、善といい、要するに「深い精神性」がなければ、よき指導者にはなれない。権力欲に毒され、堕落してしまう。もう、そこには信念も、理想もない。良識のかけらもない。本来、指導者は民衆に尽くすためにいるのだ。それに反して、自己の名声や一家の栄華のみを追いかけ、尊い同志をバカにし、最後には裏切る。そういう非道な忘恩の人間は、絶対に許してはならない。 民衆を蹂躙する者とは、断固、戦い抜く。これが創価の三代の会長の魂である。「悪は悪」だと叫び切る。全知全能を注いで、民衆を守り抜く。気迫みなぎる知勇の人こそ、真の仏弟子である。「猛然たる祈り」と「勇気の獅子吼」で邪悪を打ち砕くのだ。悪を根絶する火は強い精神から一、ロシアの教育学の父ウシンスキーは述べている。「悪人を根っ子から焼きつくす火は、強い精神のなかにのみ生まれる」(柴田義松訳「ウシンスキー教育学全集4』明治図書出版) 悪をどう打ち破り、改悛させるか。それは、強い精神があるかどうかで決まる。結局、問題は、自分自身である。弱くてはいけない。意気地なしではいけない。卑怯者ではいけない。悪に対しては、強く攻め抜くことが、慈悲である。それが、その人を救うことになるからだ。一、スペインの哲学者オルテガは言った。「生きるためには、常にわれわれは、何かにしていなければならない。さもなければへたばることになろう。さよう、人生は仕事である」(会田由訳「司書の使命」、『オルテガ著作集8』所収、白水社) 大事なのは格好ではない。「何をしたか」だ。実力がどうかである。人からよく見られよう・・・そんなことばかり考えるのは、虚飾の世界だ。我らは革命の世界、正義の世界、戦いの世界である。 とくに青年は、「勝利こそ使命」と決め、完全と、先頭を切って戦い抜くのだ。その覇気がなければ、心は既に老人である。悪人が吹き飛ぶような闘魂をもつのだ。新しい時代を!一、創価の青年を温かく見守ってくださった。ゴルバチョフもとソ連大統領のライサ夫人が、こう述べていた。「建設的であることでしか人間は幸せになれない、と私は確信します」(山口瑞彦訳『ゴルバチョフとともに』読売新聞社) 破壊は一瞬。建設は、苦闘また苦闘の連続だ。しかし、建設に挑んでこそ、何があっても微動だにしない強い自分になれる。青年が本気になって立ち上がるのだ。そうでなければ道は開けない。一、広宣流布の新しい時代をつくるのは、今である。新しい決意で、異体同心でがっちりと団結し、学会の発展のために尽くし抜く。大切な同志を守りに守る。それがリーダーの使命である。我らの前進は、一部の人間のためではない。 慈悲。共生。生命の尊厳。人間革命・・・そうした仏法の哲理を、広く社会に開花させるのだ。すなわち、立正安国のためであり、世界平和のためである。 新しい前進は、もう始まっている。戦いには、遠慮があってはならない。好き嫌いで人を見たら、戦いはできない。 「断じて勝つ」という一点に立ち、同じ目的に向かって呼吸を合わせ、心を一致させるのだ。 勝つために祈りを! 勝つために団結を! 痛快なる勝利のドラマを、きょうから一緒に、楽しく、堂々と開始しようではないか!(大拍手)(2006・4・5)*更新途中です*