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高齢のご婦人が「これ固くって苦労するの」とつぶやきながら、小さなクリップをつまんでおられる。「代わりに私がしましょうか?」とか「出来ない時は言ってくださいね」と声を掛けた私は、自己満足のために、こんな事を言ってしまっているのだろうか?親切と思いながら、その方の機能を失う手伝いをしているのだろうか?また、その方が本当は自分で出来るのに、面倒だからわざと周りに聞こえるようにそんな事を言っていると仮定したとして、私が親切にすると、毎回色んな用事を頼んできてしまい、私がいないときは、私以外の人たちにもその方が用事を頼むようになり、私の行動が回り回って、色んな人に迷惑をかけるのか? そんな事を考え出すと、ふと立ち止まってしまう。こういうことが日常よくありまして、私という人間は、本当に「自分はこれだ!」というのが分からん奴だ・・・。と嫌になる。 例えば誰かに私の行動を注意されたら、その人の立場になれば「もっともだ」と思う。しかし、別の視点では、全然もっともだと思わない。そんなややこしい頭を抱えながら、自分の行動を決めているんだなァ~。でも自信は無いの。多分誰にも迷惑をかけず、みんなが喜ぶ行動をとり続けるなんて無理だし、きっと自分でも望んでいないから、ある範囲で自己中を貫けばいいのは知ってる。でも絶対これだ!と決められないこともたまにある。 口では「私はこうなのよ」と言っていても、そんな確信が持ててるわけでもない。角を右に曲がるか左に曲がるかも、その時のインスピレーションに賭けているのだけれど、人にYESというかNOというかは、なかなか難しい。 悩むような時はたいていYESにしてしまうのだけど(その方が幸せに近そうだから)どちらでも簡単に私にとって出来る事の場合は、周りへの影響を考えてしまう。私は「どちらでもいい」けど、そういう態度で決めては周りに申し訳ないって事もある。その時は気がつかないが、あとで聞いたら凄く迷惑をかけていたりってことがある。 婦人のクリップをつまむお手伝いをしたほうがいいのか、しない方がいいのか、未だに分からない。ただ私は自分の母の事を思いだしてそうしてしまう。誰かに親切にクリップをつまんでもらえていたら、母は凄く喜ぶだろうし、私も嬉しい。ただそうして、婦人を母に重ねる事は私のエゴなのかもしれない。 ほらね、こうやって分からなくなるのです。なにか行動する時に「私はこれでいい!こうしたい」と思ったら、そのまま動けて、その責任も、責めも、潔く受け止める覚悟さえあれば、考える必要もないのでしょうね。何事も勇気が必要です。勇気を持ちます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
September 13, 2006 11:06:46 PM
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