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私はこの季節になると思い出す人たちが居ます。そして思い出す洋ナシ「ゼネラル レクラーク」。この洋ナシは今の時期限定で出回るので、このときを逃すと食べる事が出来ません。 この洋ナシを始めて食べたのは3年前かな・・・。昨年他界した高校時代の親友K子と一緒に、ある女性の家に遊びに行った時、初めて食べた思い出の洋ナシです。 私の友人の名前はK子。末期がんの宣告を受けた後、病院の食堂で、いつものように私と面会していまhした。(病室では抗がん剤の副作用で、殆どの方が音に激しく反応するため、話は殆ど出来なかったのです。それどころか、袋のカサカサ音も耳に立つ為、全ての袋物は、全て布になっていました。) 私からのお見舞いのプリンを、嫁姑問題などを食べながら楽しそうに私たちが話している時に、後ろのテーブルに座っていたのがその女性T子さん。私たちは実際の年齢よりもかなり若く見えたようで、嫁姑問題を笑いながらも真剣に話しているのが聞こえたしまったらしく、クスクスと笑い出しました。 「あななたち~高校生ぐらいに見えるのに、リアルな話して面白いね~」と、笑い声に振り向いた私たちに声を掛けてくださいました。 彼女は細く背が高く、美しい人でした。髪は金髪に近いほどの茶髪のセミロング。黒のお洒落なパジャマに、何処か有名なブランドの床につきそうな、これも黒いガウンを羽織っていました。勿論スリッパも黒。 病院では、何故なんでしょう?キティのパジャマや、ピンク、黄色の物が多い中、彼女はひときわお洒落であり、きりりと大きな目鼻口が目立っていました。 「何歳?」と最初ストレートに聞かれた私たちは、驚きながらも正直に答えたのです。すると思いのほか私たちが年を食ってる事を知り(^-^;)嫁姑トークをなるほどと納得していました。彼女は多分私たちよりも5つほど上だったと思います。 彼女となんだか気が合いそうだと思った私は「プリン沢山買ってきたのですが、お一ついかがですか?」と聞きました。なんせ食べられない方も沢山入院していた病棟なので、まず質問です。「わぁ~プリン大好き!嬉しいなぁ~^^ありがとう!」と喜んでくださいました。(このときは一人で遅いランチを食べていたので、プリンは後で食べたと言っていました。) 話が脱線してしまいますが、彼女が一人で遅いランチを食べていたお陰で、私たちは知り合いました。しかし、このことには彼女の辛い事情があったのです。彼女は抗がん剤の副作用だと言っていましたが、耳が過剰に敏感になり、食器の音や、人の大きな声が我慢ならなくなっていました。 なので、食事の時間をずらし、一人でガラガラの食堂に行き、毎日一人で食事をしていたのです。そして、私もK子も分からなかったのですが、長期入院していると病院の病室ごとにルールや、グループがあったそうで、T子さんはそのルールも嫌いだったし、グループのメンバーとは話も合わず、イジメと言う物が確かに執拗にあったそうです。 ルールはトイレに一緒に行くとか、お風呂の順番が暗黙にあるとか、そういうしょうも無いもの、だけど、そこの世界では大切なルールだったのでしょうね。あと・・・T子さんのお見舞いに来る人たちは、黒服の様な方ばかりで、そのことも阻害されてしまった要因だったそうです。 話を戻して・・・。彼女は、私たちに年を聞いた後、「今、何期?どこがガン?予後はどう?手術したの?抗がん剤してるの?余命は?」と矢継ぎ早に聞いてきました。 一見元気そうなK子ですが、彼女も既に余命半年の宣告を受けていました。私はT子さんの質問にK子がどう答えるのか怖くなってしまいました。「なんで初対面なのにそこまで聞くの」とT子さんの神経を疑いたくなりました。 しかしK子は、自分が末期であること、今までの経過、余命半年なのだから抗がん剤をする気になれないでいること、などなど率直に、きっぱりと話しました。私は心臓が止まりそうになりながらK子の目から視線を離す事が出来ませんでした。 K子のを聞いたT子さんは「私はね、末期の末期よ。余命3ヶ月。やる事無いから先生に抗がん剤しろって言われたの。だから「先生なら、この状態で抗がん剤しますか?」って聞いたのよ、子宮がんなのに、既に全身だし、肺一面にも転移があって、余命3ヶ月ならってね。そうしたら、「その立場にならないと分からない」って言うの。 どう質問しても絶対答えないのよ。なのに色んな事をやれっていうの。やらないと、病院のベッドの空きを待ってる人がいるからサッサト出て行けといわんばかりなのよ。あんな人に、自分の命を預けられないから、ホスピスに転院しようと思って、レントゲンやらなにやら貸して下さいと言ったら、なかなか渡してくれないんだから。私のものですって言ったらね、しぶしぶ渡してよこして、もうさなくてもいいからって言うのよ。もう来るなってことだと思うけど、こちらからも願い下げだわ!」 彼女は自分の悲しみを一気に話した。話は止まらなかった。でも私の友人K子はその話を、見知らぬ異国の地で、親友とめぐり合ったように、真剣に食い入るように聞いていた。心から聞いて頷き、理解していた。私はK子をただ見ていた。K子がこの人と話して、何か心が動揺しないか、悲しくならないか、それだけが心配だった。K子にこれ以上辛い目にあって欲しくなかった。でも、そんな心配はむようだったのにね。 この日からK子はT子さんと急速に仲良くなった。私は病院に1週間か2週間に1度通っていたが、K子は毎日T子さんと会えるのだから。T子さんがホスピスへ1月から入院する事が決まっていた。その前に自宅に戻り、身の回りの整理をするために、11月終わり頃だったかな・・・大嫌いな先生のいる、大嫌いな看護婦のいる、大嫌いな病院から退院した。K子はT子さんと携帯アドレスを交換していた。 その後しばらくしてK子も退院。自宅で最後を迎えられるように準備を始めた。近所の主治医の確保。これには、いざと言う時の大きな病院との連携がある近くの病院でなければならない。K子もT子さんが入ったホスピスへ、1年後自分のために見学にも行ったのだが、結局自宅で過ごす事が出来た。 11月T子さんとK子は携帯メールで連絡を取り合い、12月、T子さんからのメールで「ホスピスに行く前に、一度うちに遊びにおいで」と誘われた。この頃私もT子さんとメールのやり取りをしていたので、一緒においでと誘ってもらった。何となくK子を一人では行かせられない気がした。当然余計な気を回しただけだったのですが。(^-^;) 実はこのときに、K子の家族からT子さんとは仲良くさせない方がいいという雰囲気が、K子本人にも、私にもありました。なぜK子の夫やK子の母親はT子さんをK子から遠ざけたかったのか。 それはT子さんがK子よりも末期であり、今後付き合い続ければ、K子が自分の末路を見続けていかなければならないからということ。そしてT子さんは茶髪で目立つ人だったと言うこと。しかし、一番の決め手は、T子さんが病院を嫌い、医者を疑い、一切の抗がん剤を拒否した患者であり、ホスピスの入居を決めた患者だったから。 K子の家族は、K子にあらゆる治療を最後まで受けて欲しかったので、T子さんの話を聞いて、影響を受けさせたくなかった。勿論T子さんだけでなく、K子の家族にとっては、私もT子さんとの関係が始まったきっかけだし、なによりK子の考えの支持者となった為、悪い影響を与えるかもしれない一人として、家族さんたちの目には映っていたんだと思います。
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Last updated
December 2, 2006 08:56:54 AM
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