どうも~。念願が叶うと同時に、やはり直接足を運んで良かったなと痛感しているところのシムカです。
行ってきました泉岳寺。今日は多くの写真と共に、その思い出を振り返りたいと思う。
家から一時間以上掛けてまずは品川駅へ。ここから歩いて20分程で泉岳寺に到着する。
……と、その前に昼飯だと思い近くのラーメン屋が集合している場所へ行きラーメンを食す。
歩いて行こうかとも思ったが、極度の方向音痴である事を思い出し電車で最寄駅へ行く事に。
最寄駅から2~3分程で本来なら到着するのだが、反対方向に進んで無駄に時間を食った。
それでも何とか到着。おい工事してんじゃねーよ! と思いつつ撮影。
赤穂浪士は討ち入りの日、本所吉良邸から雪の中3時間掛けてここまで歩いてきたというのだから驚きだ。
やはり平日の昼間という事もあり人は少ない。無論それを狙って平日の休みにここまで来たのだ。
うお、まぶしっ! 撮った時はこんなじゃなかった気がするのだが……もう一枚撮れば良かった。
というかスマホで撮影したんだよね。デジカメ持って行けばよかったと今更ながら後悔。
でもまた行けばいいんだよ、今度は暴君も連れて。別に一人で寂しいわけじゃねーぞ!
赤穂浪士の墓所へ向かう途中、主税の梅を発見。思わず「おぉ」と言ってしまった。
大石内蔵助の息子、松之丞――後の主税はこの梅の木の下で切腹したと言われている。
最年少の16歳だぜ? ったく、私なんて16歳はエロい事しか考えてなかったわ。
そして大石主税の辞世の句が好き。
「あふ時は かたりつくすと おもへども わかれとなれば のこる言の葉」
人間、ホントそんなものなのかもしれないね。
少し進むと、討ち取った吉良の首を洗ったと言われる井戸もあった。
吉良上野介は悪者のように描かれがちだが、暗君どころか名君であったという話もある。
機会があれば吉良の墓にも行って、理解を深めたいところだ。
更に進むといよいよ赤穂浪士が眠る墓所へと辿り着く。いよいよかと無駄に緊張した。
階段を超えるとお線香が売っていた。うむ、これはお供えする以外ないと思い速攻で購入。
人はまばらだが絶えず来てた印象、常に3~4人はいた感じだろうか。
これぐらいが丁度良い。14日に来たら人で溢れかえってゆっくり見れなかっただろうからね。
進むとまず見えて来るのは浅野長矩――浅野内匠頭のお墓。
傍には浅野家の墓と奥さんのお墓もあった。
「この間の遺恨覚えたるか」と言いながら吉良上野介を斬りつけたと言われているが、
個人的な恨みがあって――と説明するだけでその経緯とかは明かさなかったらしいね。
浅野内匠頭の墓を後にし、更に進むと赤穂浪士が眠る墓所へと至る。
その前にどこに誰が眠っているかを示すものがあったのでじっくりと眺める。
さすがに47人覚えているわけではないので、なるほど内蔵助の墓がここで……と確認していった。
気持ち的には全部写真に収めたかったが、あまりパシャパシャやるのもアレかと思って、
内心申し訳ないと思いつつも最低限撮らせてもらった。
大石内蔵助の墓。
見れば私一人だったので、手を合わせてからややしばらくこの前に立っていた。
いや、何か感慨深いよね。こういうのを何と表現すればいいのか分からないけど。
その後も線香を供えながらゆっくりと一人一人のお墓を見て回った。
左から堀部安兵衛、奥田孫太夫、不破数右衛門。
あとは矢頭右衛門七のお墓なども撮らせてもらった。まだまだ写真あるけどキリがないので。
大石主税の墓。堀部安兵衛の隣にある。
……うむ、もう何も語るまでもなし。静かに線香を供えた。
最後にもう一度お墓の場所を示すものを見ていたら端の方の名前に気付く。
萱野三平……だと!? 二度見してすぐにその場所へ急行。
萱野三平は父と主君の狭間で苦しんだ末に自ら命を絶ってしまった。
討ち入りには参加出来なかったのだが、48番目の赤穂浪士などと呼ばれているくらいだ。
いや~感動したね。つまり47ではなく、墓所には48のお墓があるわけだ。
帰りがけ、気のいいおじさんにお線香の入った竹筒を返しながら、
「資料館みたいなのがあると聞いたんですが――」と問うと、丁寧に説明してくれたので行ってみた。
そこでは当時赤穂浪士が使っていたものだったり、忠臣蔵を説明する映像が流れたりしていた。
さて、言ってみてだがもう言うまでもなく、間違いなく“行って良かった”と断言出来る。
これを機に更に忠臣蔵ないし赤穂浪士などについてより学んでみたいと思うようになった。
そんな、誰もが知る忠臣蔵に今更改めて熱が出始めた奴の記録でしたとさ。
んでは本日はこの辺で~。今日もビリッと頑張るぞーっ!(>ω<)ノ
☆ァディオス☆(`・ω・´)ノ