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5月末に訪れた二つのお寺から、歴史を知るためには どうしてもアイヌの方々のことを知らなければ流れが 掴めないため 蝦夷地においてアイヌ人と和人の戦い二つに注目してみました。 1443年 津軽の領主が奥州の戦いで 蝦夷地に逃れ、戦いが終えると領主は、奥州に戻る この時に多くの武将がそのまま残り函館~上の国 付近にかけて「館」と呼ばれる城を築く ○蝦夷地に和人が入ることでそれまで自然と共生する アイヌの人たちは、疑うことを知らず、和人の付き 合いの中で不満がつのってくる 1457年 コシャマインの乱 長禄元年 アイヌの青年が和人の鍛冶屋に殺されたのがきっかけ この乱で東は鵡川、北は余市辺りまで居た和人が 松前~上の国付近まで追い詰められるが この時に奥州の武将、武田信広が計略を用いて コシャマインを討つ ↓ この人物 松前藩の藩祖と言われる 1593年 慶広の代に秀吉から蝦夷島主に認められ支配権を持つ 1599年 徳川家康に拝謁、この時に 蠣崎 → 松前に改名 松前藩となる ○当時各藩は○○万石といって石高を与えられていたが この藩は米が採れない為、アイヌとの交易品を幕府に 納めていた。ほかに鷹の羽やラッコの毛皮などを 交易でお金に換えていた ○アイヌとの交易上で 通常 米一俵 → 4斗(60キロ)のところを アイヌ 米一俵 → 2斗(30キロ)として 米2斗(30キロ) = 干鮭100本 ↓ 米1斗(15キロ) = 干鮭100本 ↓ 米7升(10.5キロ) = 干鮭100本 ○松前藩の財政ひっ迫から始まり 藩主・藩士とアイヌの取引から ↓ 商人 とアイヌとの取引に移り ※特に近江商人が蝦夷地に進出してからは アイヌの生活は悲惨になる 鷹の前の小雀のようであったと・・ ※アイヌの人たちの交易品の鮭を松前藩は 船を出し大網で漁をするようになる 1667年 シャクシャインの乱 このような流れでアイヌの英雄シャクシャインが 立ち上がるそして戦いは、アイヌの善戦であったが 和睦を求める和人からの求めを受け 酒宴の席でシャクシャインは毒を盛られ亡くなる 主なアイヌの酋長も同じく毒を盛られ亡くなる ◎シャクシャインの戦いを経て、松前藩は蝦夷地における 対アイヌ交易の絶対的な主導権を握りる。 このアイヌ人と和人の関係を知ると 和人は蝦夷地を植民地化しアイヌの人たちの生活を 脅かしてきたように感じます。 アイヌの方々の生き方は、自然との共生で築かれたため ”善悪がなく だますことも無く 恨むことも無く ただそのままを受け入れる”その生き方を 貫いて来たのでしょうね! そしてアイヌのみなさんは、明治時代にかけて この北の地に開拓で各県から入植した和人に対し、 北の地で生きる術を惜しみなく与えてくれていたことに 心からの感謝と寛大さを感じました。 先月13日にポロトコタンのお土産さんで出逢った 宮本酋長の娘さんの温かい笑顔に魅かれたご縁に アイヌのみなさんへの心からの感謝とお詫びを 伝えたいと感じました。 ◎明日6日響き∞ひびきの定例会が、さくらぎ笑楽好にて 開かれますが、その酋長の娘さんをお招きし 13:00~15:00までアイヌ人の智恵や自然との共生に ついてお話をしていただきます。 飛び入り歓迎ですので、好かったら遊びに来てくださいね♪ 会場費 300円 です。 場所の確認は 0144ー72ー8363 さくらぎ笑楽好 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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