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カテゴリ:郷土の歴史
話は、少しさかのぼりますが、 江戸時代、幕府直轄の”会所”が苫小牧の勇払にありました。 この勇払資料館が、その”会所”を再現したしたものです。 ◎会所とは、藩主や知行主がアイヌと交易する”場(建物)”で 運上屋とよばれていました。 勇武津会所は1799(寛政11年)、幕府が松前藩から 東蝦夷地を召し上げ直轄領としました。 江戸時代の終わり頃、樽前浜では、いわし漁が盛んで 樽前の”いわし粕”は、獲れたてのいわしを煮て まず”魚油”をとり その残りを乾燥し肥料として ”樽前粕”といい大阪方面まで知られる 一大名産品でありました。 米作りの肥料や絹の蚕を育てる桑の木の肥料として 重宝されていたようです。 イワシ漁のため、番屋が樽前から糸井まで立ち並んでいて 1800年「漁船150隻、漁小屋35軒」と記され このイワシ漁は、5月頃から秋までの季節で 先日、ゴミ拾いをした「林 重右衛門」の墓碑は、 天保10年没(1839年)で下北半島異国潤の漁師の網元で 漁師を引き連れ、樽前の浜にやって来ていたのです。 その当時には、樽前権現社の祭神 ”瀬織津姫さま”は、 漁師にとって、豊漁と航海の安全を願い、祀られていたようです。 そして、もうひとつ、そのイワシ漁やイワシ粕を作るために 多くのアイヌ民族の方々の過酷な労働があったことを 抜きには考えられません。 23日の樽前浜です。 話を勇払会所に戻します。 勇払会所は、東蝦夷地の会所20ヶ所の中でも屈指の場で 会所のある勇払川の河口には60隻ほどの小船が出入りし 沖で停泊する北前船からの荷物を揚げ下ろしをしていたと 記され、幕府の役人のいる会所のほかに 旅籠、常駐の医者もおり 倉庫も何棟かあり、東側には、お社も記されています。 やはり、ここでも大きな労働力は、アイヌ民族の方々です。 そして交易品を太平洋側から日本海側に運ぶための ”勇払越え”と言われるルートもアイヌ民族の方たちの 道案内によって可能になっていたのです。 勇払の地に”弁天社”が大きく祀られていることが 昔の絵図に描かれています。 赤い鳥居が三つ続いていますね。 この苫小牧に住むようになって36年を経て この苫小牧の地が、蝦夷地の太平洋側の玄関であったことを 知りこの土地への興味・愛着が増しました。 自分の住む土地に感謝することと、 この地の歴史を知ることは、そこに生きていた方々へ 想いを馳せることに繋がりますね。 そして樽前山の豊かな水・地熱・山の恵みに 生かされていることにあらためて感謝します。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年04月25日 11時00分52秒
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