和。
少し前の話題になってしまうのですが。京都の清水寺で、今年を表す一字というのが、ある坊主によって書かれた模様。「変」。「この世変えてくれ、という民意をくみして表した」とかいう坊主のコメントが新聞に載っていましたが。坊主の皮肉なのか何なのか知りませんけど。変えてくれ、という人頼みでは駄目ですね。私、生来あまりはっきり物申す方ではありませんが、ここははっきり駄目と言っておきましょう。変える、という意志があるならば、まず自分が変わらないと。その結果、無意識的な影響力の連鎖が、風が吹けば桶屋が儲かる式に、おのずと周囲に変化を及ぼすものです。逆に、意識的に他を変える、というのは表面的に適っているように見えるものなのですが。実は落とし穴だらけでね。エネルギーの浪費、無理がかかるし、一方的な圧力というのは見えないところで思わぬ弊害をひきおこしたり、反発、反動という現象が必ず起こるものなのです。それでは「変」が向かうところは何か。それは、双方謙虚さと感謝をもって歩み寄る「和」であると直感しています。地球と人間、政治家と国民、経営者と従業員、生産者と消費者、医療従事者と患者、教師と生徒およびその親、親と子などなど、すべての関係において。不平不満や中傷の行き着く果ては戦争、自壊。相手に求めるばかりではなく。「ないものねだり」から「あるもの探し」へ。来年の干支は丑。闘牛のような暴れ牛ではなく、むやみに角を立てることなく。穏かに野を歩む牛の如きスロー・レボリューションで、八方丸く治まりたいものですね。そして、私は自らの名のとおり、「史」が「和」へ向かうことを目指して、変わっていくことでしょう。それでは皆様、よいお年を!よい変化を!