変わる。
前回の日記「病の本(もと)」に続きます。前回の話だけだと、社会が原因じゃしょーがないじゃん、とか、何でも社会のせいにしちゃいかん、と理解されるかもしれません。補足します。社会を変えるのは私たちです。私たち一人一人のありようで社会は変わっていきます。言いかえると、病の本(もと)は私たち一人一人の中にあります。人のからだはおよそ60兆の細胞から成っているそうです。そう、正月に食べるカズノコのように。小さい粒々が集まって成っている。そして、その小さな粒、細胞は一つ一つが生まれては死んでを繰り返しています。近くにおるもん同士がある目的に向かってコミュニティ、即ち器官、心臓だの肝臓だのを構成している。そんなふうにして、私たちのからだは生きている。社会もまた私たち一人一人からなる生き物です。一人一人が家族を構成したり、会社を構成したり。そんな、組織、器官が集まって社会は成り、動いている。「癌」という病気を知らない人は珍しくなった昨今。癌細胞が増えることで、からだという全体に異変が起こります。一つの細胞から変わっていきます。それはまるで、今まで耐えに耐えてきた民衆が一斉蜂起するクーデターようにも診てとれます。癌細胞は誰の内でも毎日できたり、消えたりしている、という話ですが。そういえば、祖母が惚けてからも、帰ったおり、「オセロ」をいっしょにしました。一つのピースの影響で黒が増えたり、白が増えたり…。部分が変わることで全体が変わる、ということは癌に限ったことではありません。小指を椅子の脚にぶつけても、思わずからだを捩じらせて痛がるでしょう。誰かが死ねば、縁者は涙を流すでしょう。からだも人も命でつながっていますから、影響を及ぼしあい、変わっていく。風が吹けば、桶屋が儲かる、かもしれません。他をおもいどおりに「変える」、ということは難しいです。相手を力で捻じ伏せて、変えたように思えても、その本(もと)はよい方には変わりません。かえっておかしな歪みを生じます。だから、社会を「変える」というのは難しいかもしれない。しかし、それぞれのありようで、社会は変わっていく。自分が「変わる」というのは、みんな、できます。ちなみに「オセロ」の骨(こつ)は、(白から黒、あるいは黒から白に)たくさん変えてやろう、という囚われを捨てることにあります。NHK大河ドラマ「龍馬伝」が終わったようですね。私はテレビを観ませんが、嫁の実家で何度か放送を目にしました。再びやってきた現乱世。今の私とほぼ同い年でこの世を去った彼のことを想い、元長州の片田舎で細々と暮らしていることに歯痒さを感じたりもしたものですが。自分と向き合い、目の前の命と向き合い、足元から地道に改革を志しています。みんな、変われる。それは、みんなが龍の魂をもっている。そんなふうに言えるんじゃないでしょうか(福山雅治のような美男には、なかなかなれませんけど)。