「ありのまま」と「自分探し」。
最近流行りの「ありのまま」という言葉と、一時流行った「自分探し」。 こんな言葉が流行る、というのはバカバカしいが、先に書いた二重構造を考えると、合点がいく。 二重構造とは、頭が描いている自分像と、実際の自分は異なる、という話だ。 「ありのまま」と「自分探し」は言葉として、まるで逆を向いているようで、実は同じ方向と見ることもできるのだ。 即ち、実際の自分に向いていくことを考えるならば、それらの言葉はリンクする。 もっとも、そのことに氣づいているならば、その時点で「ありのまま」も「自分探し」も全く意味をなさない言葉であることに氣付くだろう。 問題は、それらの言葉を現実逃避、あるいは自己弁護に使う場合の危険性だ。というか、実際のところ意味薄弱なこれらの言葉が流行った、ということは、現実逃避や自己弁護が巷に溢れている表れだと見て相違ない。 「ありのまま」は、頭に描いている自分像と、実際の自分は異なる、という現実から目をそらすために使われている。頭に描いている自分像を肯定して、幼くも自分の正当性ばかり主張する輩を後押しする。これは究極的には戦争のもとである。どちらも自分が正しい、でぶつかったら争いが起こって当たり前だのクラッカー(先日食べた)だ。アメリカでは頻繁に起こるらしいバカバカしい訴訟の嵐が、そのうち日本でも展開されるのではないか? 「自分探し」は、これまた、今ここにいる実際の自分を見ようとせずに、頭に描いている自分像を拡大していくという現実逃避ととらえられるだろう。そんなものはいくら世界の裏まで探しに行っても、目をそらし続けている限り見つかることは無い道理だ。それどころか、頭の描く自分と、実際の自分のギャップが広がり、わけがわからなくなっていく危険性がある。 つまるところ、多くの場合、「ありのまま」と思っている自分像も、「探し」ている自分像も、およそ実際の自分ではない。 「ありのまま」の自分を無理に肯定する必要もなければ、わざわざ自分を「探し」に行く必要もない。ただ、今目の前に広がる現実と向き合い、行動してゆけばいいだけだ。 「ありのまま」だの「自分探し」だの。わけのわからん言葉が、人を、社会を混乱させることに氣付く良い例だ。