治癒力の発揮。
おかげさまで、今回も病院に行かずして、謎といえば謎の病気は治まった。謎、という言葉を使うと、大袈裟な感じがするが、病院に行っていないから、科学的なことは何一つわからない。もちろん科学的な知識はおそらくヒトナミ以上に持ち合わせているから、こじつけようと思えばいくらでもこじつけられる。そういう意味で理解したつもりになるのは簡単である。謎を謎でない、とすることもできる。ただし、それは自分の持ちうるものの範囲に限ってだ。実際、病気という超自然現象はそれ以上のことが起こっているのだから、追求すればするほど、果てしなく謎に違いない。以前聞いた話だが、癌という病気が発見された当初、医学者は、これは簡単な病気だとたかをくくった、という。しかし、究明すればするほど、深く、わけがわからなくなっていった、という。当時(およそ2年前か)、へぇ、と思って聞いていたが、今となっては当たり前、程度にかかわらず、すべての病気が実はそうなのだ、と言える。ただ、深刻度が違うぶん、癌に対しては、究明が深くなっていくだけで、風邪のようなものは、究明の手を緩め、わかったつもりになっているだけだ。ただ、癌にせよ、風邪にせよ、究明してゆけば、同じく生命体における、生命現象、超自然現象であり、どこまでいっても謎はつきない。ということは、想像できる。だから、私にはそもそも病気は謎なもの、という前提があり、その謎が不安を引き起こすことはない。病院に行って説明を受けると、安心する、という話を聞くことがあるが、私に限っては必要ない。もちろん、私の治療に関しても、そういうことで安心していただけるならば、説明する。ところで、この場合の「安心」なのだが、これもまた突き詰めていくと、「安心したつもりになる」と本当の「安心」がある。「つもりになる」方は、言葉、話の内容による、いわゆる洗脳、頭がまるめこまれる(かためられる?)、ということだ。これは正味な話、説明する側が人である必要は無い。マシンで良いのだ。ただ、あからさまにマシンだと見た目でアウトだと思うが(それもすぐ慣れるのではないか、という危惧もある)。病院には行かないが、様々な店で説明を求めた際、説明する店員に対し、「よくできた人型マシンだな」と心の中で毒づくことは少なくない。この時、私がもし病気であれば、間違いなく、悪化するだろう、と想像できる。何せ不快だからだ。頭は「ああ、これで安心だわ」と「安心したつもり」になっても、生命体自身はストレスを受けているのだ。対して、本当の「安心」はどうなのか。それは、本当に自分の訴えを聞いてもらう、それに対して本当に自分に対して伝えてもらった時に訪れる。究極的には、説明の内容はどうでもよいのである。赤ちゃんや動物と接したことのある人なら、想像しやすいと思う。彼らは言葉を使わない、にもかかわらず、自分に対してまっすぐ「何か」を向けてくる。そうした時の、何とも言えない、和いだ心持ちを経験したことはないだろうか。あの手のことなのだ。これが治癒力を高めることは言うまでもない。日常生活において、ちゃんと相手に接することが、お互いの生命力を高めあうことなのだ。常日頃、私の課題としているところで、これもまた、「できた」のない、果てしない探求である。