過程で育つもの。
連休中、長男(4歳)と二人で釣りへ。 相変わらず長男の釣り熱は衰えるところを知らない。 今回で長男は、餌をつけ、(仕掛けを)投げ、釣って、更には魚をさばくまで、一人でこなせるようになった。 リールを操作して投げることに、一番てこずっていたが、それも今回マスターし、終盤には随分遠くまで仕掛けを飛ばしていた。 できるようになった、はもちろん喜ばしいことなのだが、重要なのはそれまでの過程にある。 まずは手本をよく見る。まさに食い入るように。 それからは、見よう見まねで、失敗を繰り返す。 時々、手本を見なおす。 そして、また繰り返すのだ。情熱の向くままに。 この間、私自身は、というと、説明は最低限にとどめ、丁寧にやってみせることと、後は様子を見守ることに氣をつけている。 できる、できない、にとらわれるのではなく、彼の熱意、意志の向かうところを妨げないように注意する。 もっと手を加えれば、確かにもっと早くできるようになるかもしれない。 しかし、それは「仕掛けを投げる」ということのみが、である。 その過程にある、情熱を傾ける、自分で工夫する、などといった、何にでも通ずる、生き抜くうえで本当に大切なところは育たない。 当然だが、仕掛けを投げれたところで、生き抜いていくことはできないのだから。 「仕掛けを投げる」を通じて、彼そのもの、中身が育っていくところを私は見守っている。