仕打人、愕然…
仰木監督、勇退 後任に広島・三村ヘッドオリックスの仰木彬監督(70)が、今季限りで退任することが24日、明らかになった。オリックスはこの日、日本ハムに敗れ、プレーオフ進出が絶望になった。仰木監督には、かねてから宮内義彦オーナー(70)が強く続投を要請していたが、体調面の不安から勇退を決意した。後任には広島を退団することが決定的な三村敏之ヘッドコーチ(57)を最有力候補にリストアップ。広島のシーズン終了を待ち、10月中旬にも正式要請を行う。(スポーツ報知 http://sports.yahoo.co.jp/fc/orix_buffaloes/)げげげげげげげげげ!!!!そんなぁぁぁぁぁ!!!今年は残念、なら来年たのんます!!!!!って、思ってた矢先やのにぃぃ!!!あ~…これで俺がオリックスを応援する理由がなくなった…。セ・リーグなら阪神。パ・リーグならオリックス。昔っから応援してたんだけど…合併騒動で、一度愛想尽かしちゃったんだけど…。でも、仰木さんが監督するってんで応援してたんだけど…。仰木さん…。ショック…(T_T)めっちゃ哀しい@@;;あのパーソナリティ、仰木マジック…一流のエンターテイナー、色々魅力を語るキーワードはあるけれど…。僕には「がんばろうKOBE」が最も大きなファクターやなぁ、やっぱ。コレでもかと言うほど傷ついた神戸の街を、どれだけ勇気づけてくれたことか。…あかん、泣けてきた(T_T)とにかく、僕にとってはヒーローなのですよ。はぁ。勇退、ですか。そうですか。なら、こう言うしかないですなぁ…。『長い間、お疲れ様でした!!』********************************************************************仰木彬出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』仰木 彬(おおぎ あきら、1935年4月29日 - )は、福岡県中間市出身の元プロ野球選手。現オリックス・バファローズ監督。東筑高等学校から1954年、西鉄ライオンズに投手として入団。当時の三原脩監督に野手としての素質を見いだされ二塁手に転向。好守備で西鉄の黄金期を支えた。当時から三原監督とは野球理論について議論を交わしており、これが後年の監督時代に芽を吹くことになる。1967年現役引退。2年間西鉄のコーチを務めた後、1970年に三原が監督を務めていた近鉄バファローズに移籍。近鉄では18年間コーチを務め、1988年に監督に就任。黄金時代の西武と激闘を繰り広げ、1989年にオリックス・西武との三つ巴を制し、2位オリックスにわずか1厘差でリーグ優勝。1992年に近鉄監督を辞任。近鉄監督時代には吉井理人・野茂英雄を育成。また、仰木が監督を辞任した1992年に入団した中村紀洋を育て上げたことで有名。1年間ABCの解説者を務めた後、1994年にオリックス・ブルーウェーブの監督に就任、イチローの素質を見いだした。1996年には監督としては自身初の日本一に輝いた。2001年限りでオリックス監督を勇退。奇策による好采配は恩師三原にあやかり「仰木マジック」と呼ばれた。2004年に野球殿堂入り。2005年から、オリックス・バファローズで指揮を取る。2005年6月4日の対広島戦で投手交代の是非をめぐって、44分の遅延行為により退場処分を受ける。仰木は「審判にはコースについて少し抗議したというものであって投手交代ではない。審判が聞き違えた」と主張したが、認められなかった。この試合の球審だった土山剛弘は「確かに『投手交代、菊地原』と聞き、仰木監督が復唱した」と主張し、両者の言い分は真っ向から対立した。目次 [非表示]1 人物 2 表彰 3 通算成績 4 監督としてのチーム成績 5 監督通算成績 6 関係の深い日本人メジャーリーグ経験者 7 著書 8 関連項目 [編集]人物西鉄入団当初は投手、それも「超大物」ルーキーであった(高卒で南海ホークス入団後即2年で50勝をあげた宅和本司より上といわれていた)。しかしフリーバッティングで不運なヒットを連打され、それを見ていた三原監督から「お前は投手としてのツキがないから二塁手転向」といわれ、その5秒後にはセカンドのポジションにいたという。ツキだけで大物ルーキーを野手転向させる三原も三原だが、それに対しあっさりと二塁手になってしまうのもすごい。このあたり、監督になってからも見られる発想の柔軟性、物事にとらわれない性格と機転の速さが見て取れる。 入団時に当時のマスコミが「野獣の群れに貴公子が紛れ込んだ」と評するほど端正な顔立ちだったため、女性人気が高かった。 西鉄選手時代から今までかなりの遊び人で知られる。選手時代は「グラウンドの外ではいくらでもムチャやってくれたらいい」と選手に言っていた三原監督に「仰木と豊田泰光だけは遊びに制限をかけんといかん」といわれたほどで、西鉄の島原キャンプの休日に船で天草までナンパをしに行ったものの、海が荒れてその日のうちに帰れず、翌日になってコッソリと参加したら三原監督からバントの練習だけをするように命令されたというエピソードを持つ。監督になってからもニュースステーション出演時に当時キャスターだったテレビ朝日の小宮悦子アナウンサー(現在はフリー)を本気で口説いていたというエピソードもあるほど、今に至るまで遊び人ぶりは健在である(西本幸雄辞任後は毎年のように近鉄の次期監督候補として名前が挙がりながらも結局18年もコーチを続けることになったのは、そういった仰木の遊び人ぶりを球団首脳が心配したからだと言われる)。またかなりの酒豪で、西本監督時代の投手コーチだった杉浦忠とキャンプで相部屋になった時に連日酒を酌み交わしながら野球談義を続け、最終日に空き瓶の本数を数えたところキャンプの日数と同じだったという逸話が残っている。 本人がそういう調子である為、グラウンド外で何をしようが、試合で結果を出せば何もいわないタイプである。反面、練習はかなり厳しく、走りこみの量は12球団1と噂されるほど。さらに試合でも勝負に徹する冷徹さを持ち合わせている。かつては近鉄監督時代に、当時の投手コーチである権藤博や抑えの切り札、吉井理人との対立も噂された。 温厚そうに見えてかなりの激情家である。近鉄監督時代は殴られた選手がベンチの壁まで吹っ飛んだ、と言うこともあったとか。 近鉄時代から日替わりで打線をメンバーチェンジしていたというイメージがあるが、実際はシンプルな野球をしていた。 イチローを育てたことで目立たないが、投手潰しが多く、平井正史、鈴木平、小林宏、大久保勝信と彼の時代に活躍した投手は数年後にケガで悩まされることが多かった。 オリックスの第1期監督時代から猫の目のように打線をメンバーチェンジしていたが、猫の目投手リレーはしていない。 「イチロー」の名付け親と思われているが、登録名の変更のアイデアを出し、進言した実質の名付け親は新井宏昌コーチであり、それを認めたのが仰木である。 彼が育てた選手でメジャーリーグに旅立った者が多い。しかもその全てが仰木を師匠と公言している。イチロー、田口壮、吉井理人、野茂英雄、長谷川滋利など、その人間的魅力が伺われる。イチローはキャンプ中の仰木に会うためだけに宮古島までわざわざ出向いた。また吉井は「仰木さんに要らないといわれたときが自分の引退のとき」と言っている。 野球殿堂入りの祝賀会に、10.19のメンバーが全員出席したと云う。イチローは、その日アメリカから出席したと云う。 [編集]表彰ベストナイン(1960) 正力松太郎賞(1996) 野球殿堂入り(2004) [編集]通算成績試合 1328試合 打率 .229 安打 800本 本塁打 70本 打点 326打点 [編集]監督としてのチーム成績年度 年度 順位 試合数 勝 敗 引分 勝率 ゲーム差 チーム本塁打 チーム打率 チーム防御率 年齢 球団 1988年 昭和63年 2位 130 74 52 4 .587 0 154 .253 3.23 53歳 近鉄 1989年 平成元年 1位 130 71 54 5 .568 ― 157 .261 3.86 54歳 1990年 平成2年 3位 130 67 60 3 .528 14.5 181 .275 4.34 55歳 1991年 平成3年 2位 130 77 48 5 .616 4.5 157 .265 3.46 56歳 1992年 平成4年 2位 130 74 50 6 .597 4.5 155 .247 3.69 57歳 1994年 平成6年 2位 130 68 59 3 .535 7.5 92 .285 3.93 59歳 オリックス 1995年 平成7年 1位 130 82 47 1 .636 ― 115 .259 2.88 60歳 1996年 平成8年 1位 130 74 50 6 .597 ― 124 .271 3.55 61歳 1997年 平成9年 2位 135 71 61 3 .538 5 111 .263 3.61 62歳 1998年 平成10年 3位 135 66 66 3 .500 4.5 140 .264 4.03 63歳 1999年 平成11年 3位 135 68 65 2 .511 10.5 112 .263 3.64 64歳 2000年 平成12年 4位 135 64 67 4 .489 8 116 .260 4.64 65歳 2001年 平成13年 4位 140 70 66 4 .515 7 143 .263 4.11 66歳 ※太字は日本一 ※1989年は1月8日から平成と改元