国井咲也の満巻全席 最終回
本日の更新をもって、仕事としての最終回を迎える。最終回だからあえて書く。2013年はとにかく、行政と警察組織に対して、被害をこうむる一人として、スト−カー犯罪についてもっと真剣に考えてくれ、と、切実に願う事件が数多く起きてしまった年だった。自分が想定していたような「警察の認識の甘さ」(被害者の現住所が犯人にわかるような対応をするなど)がそのまま露呈し、被害者が出た事態には、今でも忸怩たる思いだ。無念でならない。さて、この件については今後、語ることになるだろう。タレントとしては極めてリスキ−だが、それ以上にこのようなものは防犯に活用できる情報になるかもしれないと考えるようになったからだ。(もちろん、犯人については 実名報道という形をとる。 それとあわせてライブ会場入り口で 排除できるように使用して、 犯人に対して一定の効果が見られた 犯人の顔写真も公開する。 客席をスタッフに撮影してもらい、 画像処理で犯人だけ抜き出したものだ。 今後、誰の眼にも触れられるようにするつもり。 でないと『防犯』に役立たないからだ。 こういうことを書くと、 まったく犯罪とは関係がない ちゃんとした観客がストーカーだと勘違いされる 危惧が生まれてしまう。 だから主に芸能人はこの手の話は「ない」ように ふるまう傾向にあるが、 やっかいなことに、犯罪者はそこに 「なにも言っていないから、 私がしているのは悪い事ではない」という 身勝手な妄想を強化させるようになる。 ゆえに、 犯罪者を名指しする必要性があるわけだ)あー、こんなことを書いていたら、気分が悪くなってきた。どうしようもなく荒んだ野良犬の話など、ここでやめておこう。こちらの心まで荒んでしまう。では先週の続き。(ほっ)なのだけれど、先日、同じような事をサンキュータツオ氏が司会を勤める番組でさんざん喋ってしまったので、同じことをやってもな、という気がしないでもない。 そこで今年、他に何を考えたかというと、『魔性』について考えてもいた。ああ、ここで再度注意喚起。先述したようなストーカーの中年女は「まだ逮捕されていないだけ」の犯罪者に過ぎない。こういうのは間違っても、『魔性』などとはいわないので、くれぐれも勘違いしないように。西尾維新氏原作の『化物語』のシリーズでの『囮物語』でもその”魔性について”の考察がされていた。なでこちゃん編だ。さすが維新力と唸った。すでに求心力を失ったかに思える大阪の維新とはえらい違いだ、とまで国井が思ったかどうかはここではさておく。しかし、国井咲也にとって、2013年、彗星のごとく現れた「魔性」は残念ながら千石家の一人娘ではなく、『のんのんびより』のほたるんこと、一条蛍だ。どういうわけか、この娘さんから眼が離せない自分がいる。(なんのこっちゃ)「ちゃんとしている」という大人びた部分とやはり子供とも思える『女子力』な部分のアンバランスさ…。いや、ほたるんの場合は、アンバランスではなくて、『ベスト・バランス』だ。いわゆる「『大人』と『少女』の同居」みたいなものかもしれない。しかして、この『大人』というのはどこからすくいとれるものであるのか。このあたりから演出論になる。よーく見ると、この一条蛍。じつに「仕草が上品」になっている。正座の仕方など、おおよそ現代日本人女性(もちろん男性もだが)にはできないような「品」を感じさせてくれる。できないというのは「意識すれば」できる、できないではない。日常の動きとしてそれらはにじみ出る。それを人物の性格(情報)として映る。簡単に言うと「素」の動きなのかどうかだ。素のままで「すっ、」と正座できる。「さっ、」と喫茶店メニューを渡す、といった部分に品、つまりは「育ちの良さ」が読み取れるわけだ。しかもほたるんは美女なのである。圧倒的な『美』の前には年齢など、関係がない。いまなら東京都知事は怖い存在ではないので、あえて告白してみた。もちろん、これはロリンピック開催に向けた、とんでもカミングアウトではない。とにかく蛍ちゃんにはいちいち眼が離せなくなってしまう魔性が備わっている。気のせいだろうか、『囮物語』でその魔性の少女を演じる声優さんと一条蛍役の声優さんとの『声』の相似性もみてとれる。これは俳優としての声や芝居がどうのという話ではない。おそらく、「魔性」的な少女のキャラクタに「似合う」声(演出としての演技の方向性、の意)があるのではないかということ。うーん、それにつけても『のんのんびより』、素晴らしい。「面白さ」という意味で作中最強になるであろう、れんげちゃんを、冒頭のつかみと、後半まで登場をセーブすることで、どうしてもしりすぼみしやすい構造になる『なにも起こらない日常系のったりまったり』作品でありながら「おお、後半からどんどん面白くなっていく!」と感じさせる構成も見事だ。安定して「くすりと笑わせる」ことができるれんげというキャラクタをギリギリまで『使わない』ことでその爆発力を後半に回したとしか思えない構成だからだ。これは逆説的に「目先の笑い」に頼らないでも中盤を持たせる自信がなければできない。とうぜん、すべからく「笑いをとる」という事でれんげを登場させても、それが全体にとって良いように運ぶかどうか,疑問にもなったはずだ。「こまごまとした4コマギャグ」だけの印象になりかねないからである。「人間でごったがえしていない自然」の描写が作品の核の部分のひとつであるならば、この『4コマギャグ』という一言でくくられてはいけない、という判断もアニメ制作サイドにはあったのではないだろうか。作品はあくまで「のったりまったり」「ふもふも」「のんびり」なテイストであるが、見れば見るほど、実はおそろしくエッジの立った部分もひしひしと感じられるのだ。そう、この作品は『カッコいい』作品でもある。さあ、2013年も暮れる。また一話から見直そうか『のんのんびより』。 おかげで、この年末は退屈知らずだ。