週刊 読書案内 西成彦「新編 森のゲリラ宮沢賢治」(平凡社ライブラリー)「2004年書物の旅 その10」
西成彦「新編 森のゲリラ 宮沢賢治」(平凡社ライブラリー) 今から十五年も前になるでしょうか、垂水の丘の上の学校に転勤して三年生の授業を担当しました。名刺代わりの「読書案内」でしたが、何だかイキッテマスネ。そのまま掲載します。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 春休みが終わってしまった。ついでに転勤してしまった。「休み前にはまとめて紹介しないと。」 夏休み前にも、冬休み前にも思うんだけど、今回は「転勤前に」だったのに、これが,やっぱり、できなかった。「事前に準備しておく」 そういうことが子どもの頃から全くできない。とりあえず一度失敗しないと真面目になれないと自己弁護して暮らしている。実際は失敗ばかり繰り返している。いまどきの学校の教員としては失格。職員室が嫌いな理由の第一はこのことだからね。 結局、昨年は一年間、とうとう職員室のぼくの机の上は一度も片付かなかった。この読書案内で案内している本もそうで、そういう「~のために」とか、「整理整頓」的な意図は全く持続できない。何となく興味があったり、授業で扱ったりした話題に引きずられて書いている。ドンドン上に重なっていって、やがて収拾がつかなくなる。 ところで昨年の二学期から、ボクにとってだけど、宿題は「宮沢賢治」。学園西町で話題にしていた事を新しい星陵台の読者相手に書き続けるというのもなんかヘンだけれど、まあいいか的のりで書いている。尤も読者していただけるのかどうかは今後の事なので、ホントはよくわからない。 なにはともあれ、十二月に入ってから冬のあいだ、いくつかの「宮沢賢治」関連の本を読んだ。ぼくの疑問は「なめとこ山の熊」のラストシーンで熊達がお祈りするが、それは「何故だ?」ということだった。学園西町の学校で授業に付き合った人たちには問いかけだけはしたけれども、結論があったわけではなかった。 高等学校に限らないと思うが、教員というのは因果な商売で、同じテキストを繰り返し授業する。作品によって何回やってもよくわからないものがある。いい作品の場合が多い。授業をするたびに解釈が変わってしまう場合もある。結局、ボク自身に宿題ということでお茶を濁す。 さて、西成彦というポーランド文学の先生がいる。伊藤比呂美さんという詩人の夫だった人。たぶん過去形だけど、今の話題としては関係ないか?その西成彦が「新編 森のゲリラ宮沢賢治」(平凡社ライブラリー)で賢治の童話を詳しく論じているのにぶつかった。 彼によれば<賢治は何故、祈る熊を描いたのか>を考えるために思い出してほしい作品は中学校の教材で出てくる「注文の多い料理店」だそうだ。山猫亭にやって来た「人間」は自分が料理されるコトになるということを知って仰天してしまうのだが、なぜこんな話が子供向けに書かれたのだろう。西さんは植民地文学という考え方を導入する事でこの問題を解こうとしているようだ。 西さんの説を、ぼくなりの解釈でおおざっぱに言うと「文明」と「野蛮」の関係を逆転させてみるということだ。 文明人は未開社会に対する文化的優位に何の疑いも抱かず近代社会を作り上げてきたフシがあるが、<ほんまかいな?>という疑いを持ってみると、鉄砲担いで山の中に入って猟を楽しむ人たちと、たとえばキリスト教や近代文明を担いでアジアやアメリカ、アフリカに出かけていったヨーロッパの人々の姿を重ねて考える事が出来る。 これって、実に現代的な視点の逆転、発想の逆転の意味もあるのではないだろうか。たとえばイスラムとアメリカという例を思い浮かべてもいいかもしれない。しかし、熊が祈る事についてすきっとわかったわけではない。しようがないね。 西さんのこの説を読んでいて思い出したのが「ますむらひろし版宮沢賢治童話集」<朝日ソノラマ>だ。ますむらひろしは「アタゴオル物語」という傑作マンガで知られているが「賢治に一番近いシリーズ」と銘打ったこの「宮沢賢治童話集」のシリーズもなかなかいいと思う。 登場人物がすべて猫なのだ。挿絵は「風の又三郎」の主人公なのだが、学生服にガラスのマントをはおっている又三郎が猫なのだ。このシリーズでは「銀河鉄道の夜」のジョバンニもカムパネルラも猫。で、猫であるほうがずっとリアルに賢治の世界に入っていけるような感じが、ぼくにはする。 読者もまた猫の世界の住人であること。そこから賢治が物語を作っているのではないかというリアルさ。尤もますむらひろしが描くネコマンガのキャラクターが、初めから好きだというのが前提条件かもしれませんがね。まあ何処かで探して読んでみてください。ちょっと意外ですよ。 というわけで、この春転勤してきた国語の教員です。ぼくは「本」を読まない人を特に軽蔑したりすることはありませんが、「本」も読まずに、受験技術の読解力とかを口にする人は「バカ」だと思っています。ヨロシク。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ というわけで、実に幸せな丘の上の暮らしが始まったのでした。「2004年書物の旅その9」はここをクリックしてください。「その12」はこちら。追記2023・12・20 池澤夏樹の「いつだって読むのは目の前の一冊なのだ」(作品社)という読書日記の2004年の6月17日に紹介されていました。 どんぐりと山猫というよく知られた童話において、なぜやまねこはどんぐりたちの争いの仲裁を人間である一郎に頼まねばならなかったか?なぜ稚拙な「国語」で書いた葉書を送らねばならなかったか?政治的な役割を負わされた標準的な国語を用いるのは、先住民が弱い立場を自覚してからである。山猫は一郎に権威を求め、一郎はその権威を利用してでたらめな審判を下す。その結果、彼らの友情は一回かぎりで終わる。 このような読みは実に新鮮で知的刺激に満ちている。(P49) 「クレオール」とか植民地主義とかを話題にしながらの紹介で、実に刺激的です。ボクが高校生に案内したのが、今から20年前でしたが、池澤夏樹の日記も2004年、同じころ同じ本を読んでいたんだという殊に、チョット、しみじみしますが、西成彦の本書は、今でも読まれるべき本だと思うのですが。ボタン押してね!ボタン押してね!