週刊 読書案内 川上弘美「水声」(文春文庫)
川上弘美「水声」(文春文庫) 久しぶりに川上弘美を読みました。「水声」(文春文庫)です。 Suiseiと表紙にルビがあります。「すいせい」と読めばいいようです。2015年の読売文学賞受賞作です。 ページを繰って最初に目に入るのは目次です。1969年/1996年ねえやたちママの死パパとママ/奈穂子家 ― 現在夢女たち父たち1986年前後1986年2013年/2014年 こんな感じです。 書き出しはこんなふうです。夏の夜には鳥が鳴いた。短く、太く、鳴く鳥だった。雨戸はたてず、網戸だけひいて横たわれば、そのうちに体は冷えてくるはずだったのに、その夏はいつまでも体が熱を持ったままだった。 「その夏」のことが語りだされているのですが、その夏とはいったい、いつの夏なのでしょう、という謎でこの小説は始まります。作中の語り手は「都」という女性で、語っているのは2014年、この作品が発表されたのは2013年から2014年の「文学界」という文芸雑誌ですから、作家が書き始めたのは2013年、ないしは2012年の暮れあたりかもしれませんが、作中人物でもある「都」が語るのは2014年でないと、結末との辻褄が合いません。 小説って、面白いですね。そういうこともできるわけです。 「都」は1969年に11歳の少女だった女性で、2014年に存命ですから、この冒頭を書いたとき(語った時(?))には55歳か56歳です。 ちなみに川上弘美は1958年生まれですから、「都」と同じ年、その事実が「作品」が描いていること、まあ、たとえば自伝小説であるというふうに関係があるかといえば、この作品では、それはありません。ただ、作家と同じ時代を生きてる登場人物という意味ではかなり大切な要素素だと、ぼくは思いました。 「その夏」という謎でページを繰り始めると、すぐ次のページにこんな描写があります。 匂いは記憶を呼びます。 アスファルトを平らにならす熱いにおいをかぐといつも、セブンアップをやたらに飲んだ1969年の夏を思い出す。 あの夏私は十一歳で、陵は十歳だった。 この引用部に出てくる「あの夏」と冒頭の「その夏」は違うようです。小説が、いや、55歳だかの作中人物「都」が、今、語っているのは「その夏」であって「あの夏」ではないからです。 ついでですから、補足すれば、「陵」というのは「都」の弟です。この小説の登場人物は目次にある「ねえや」、「ママ」、「パパ」、ママの幼なじみの娘で二人にとっても幼なじみである「奈穂子」、と、この「姉弟」で、ほぼ、すべてです。 もう一つ、ついでですが、この引用部の「匂いは記憶を呼びます。」というような描写は、「これが川上弘美です!」 とでもいうテイストですね。彼女の作品は、ストーリー云々にこだわるよりも、こういう「感覚的」表現を面白がる方がスリリングかもしれませんよ。 ともあれ、「都」が語り始めた「その夏」とはいつの夏のことで、「その夏」、語るべき、何があったのか、それがこの作品の「愛と人生の謎(裏表紙の宣伝文句)」というわけでした。 そのあたりは、まあ、ご自分で読んでいただくほかないわけですが、実はこの作品にはもう一つ「謎」があると、ぼくは思いました。 それは題名です。「水声」って何だ? ということです。申し訳ありませんが、ここで禁じ手を使います。 ふいに、水の音が聞こえた。遠い世界の涯(はて)にある、こころもとなくて、ささやかな流れの。 わたしと陵はまだその涯まで行っていない。誰もそこに行きつくことはできないのかもしれない。ママも、パパも、そこに行きたいと願ったのだろうか。 水鳥が、一羽だけ、暗い水の面にうかんでいたの。奈穂子は言っていた。一羽だけなんだけれど、ちっともさみしくなさそうだった。雪にうずもれるようにして、静かにうかんでいた。あなたたちのママは、あの水鳥みたいだったわね。 東京に戻ると、もう家はきれいに壊され、ただ平らな土地だけがあった。思っていたよりもすっと狭かった。ママが好きだったゆすらうめも、あじさいもなくなっていた。 また夏が来る。鳥は、太く、短く鳴くことだろう。陵の部屋を、今日はわたしから訪ねようと思う。 ご自分でお読みくださいなどと言いながら、小説の結末を引用するとは何事だというわけで、ちょっと反則なのは承知です。しかし、この最後の描写は小説の謎を、相変わらず暗示はしていますが、解いているわけではありません。 むしろ、「また夏が来る。」という最後の一文が冒頭の「夏の夜には鳥が鳴いた。」という一文と呼応して、語りの一貫性を、同じ人物の同一の語りであること示していると考えられる結末です。 マア、そのあたりを理由にご容赦願いたいのですが、注目していただきたいのは、ここにきて、がぜん浮かび上がってきた「水」についてです。 「水」と「廃墟」をめぐる「都」の身辺の出来事に、重ねられている奈穂子のことばが、この小説全体の読み直しを求めているように、ぼくには感じられたのです。 「時間」の往還の中で浮かび上がる「昭和」から「平成」という時代の記憶。「身体」として感受する「他者」と「孤独」。 「都」と「陵」という姉弟の「出生と愛の秘密」。 読みどころは満載ですが、もう一つ、2011の震災の「災後小説」という視点から読み解くことを、物語の終わりに暗示しているのを見落とすわけにはいかないのではないでしょうか。 小説の底に流れている「水」の声に耳を澄ませることで浮かんでくる世界があるのではないか、そして、その世界が川上弘美という作家の「現在」を暗示するのではないか、そんなふうに思うのですが、なかなかピントがあいませんね。 どうですか、一度「水の声」に目を凝らしてみませんか?