週刊 読書案内 野呂邦暢「諫早菖蒲日記」(「野呂邦暢小説集成5」文遊社)
野呂邦暢「諫早菖蒲日記」(「野呂邦暢小説集成5」文遊社) 2021年の暮れごろに青来有一という作家の「爆心」(文春文庫)という作品を読んで、「長崎の作家って・・・」と考えてしまったのが始まりで、2022年はこの方で始まりました。 野呂邦暢(のろくにのぶ)です。ちょうど学生だった頃に「草のつるぎ」という作品で芥川賞をとった人ですが、京都大学の受験に失敗して自衛隊に入ったという経歴だけ覚えていました。 「草のつるぎ」はたしか・・・と探しましたが見つかりません。アマゾンとかで調べるととんでもない値段になっていて、図書館を調べると「野呂邦暢小説集成」(文遊社)が所蔵されていました。第五巻「諫早菖蒲日記・落城記」を借りだして読み始めました。 美しい装丁の本です。「小説集成」として集められているわけですから当たり前ですが、600ページを超えていて、かなり分厚い1冊です。 開巻、1行50文字、1ページ40行の密度で「諫早菖蒲日記」250ページです。一瞬たじろぎましたが、読みは始めてはまりました。まっさきに現れたのは黄色である。黄色の次に柿色が、その次に茶色が一定のへだたりをおいて続く。堤防の上に五つの点がならんだ。堤防は田圃のあぜにいる私の目と同じ高さである。点は羽をひろげた蝶のかたちに似ている。河口から朝の満ち潮にのってさかのぼってくる漁船の帆が、その上半分を堤防のへりにのぞかせているのである。ゆっくりとすべるように動く。朝は風が凪いでおり、さもなければ西の逆風が吹く。けさはいつになく東の風である。帆をはるのはめづらしいことだ。川岸に群れつどう漁師の身内どもが見える。先頭の船が帆柱にかかげた大漁旗をみとめてどよめいていることだろう。今しがた私が遠眼鏡で確かめたものである。舟付場に女子が近づくのはかたくいましめられている。去年までは私が舟溜りへおりて魚の水揚げを見物していても母上はだまっておられた。しかし、去年の暮、嘉永の御代が安政となりかわってからは、母上は何かにつけて口やかましく女子の心得を説かれる。十五歳といえば、男子なら元服する年齢である。いつまでもし志津は子供のつもりであってはならぬと申される。(P11) 語っているのは藤原志津、父は諫早藩という、幕末に進取の誉れの評判で名を残した佐賀藩の親類格とはいいながら、一万石に足りない小藩ではありますが、吉田流砲術師範藤原作平太、叔父は蘭学を学んだ藩医藤原雄斎という武家の娘です。 数えで十五歳、男の子なら志学ということで、元服ですが、女の子である志津は母親から大人の女性である心構えと立居振舞を躾けられながらも、生き生きと動き始めた心を抑えることができません。 漁師たちが働く船着き場に直接出かけることを15歳になったからということで禁じられている少女の「遠眼鏡」を手放すことができない好奇心、あるいは、子供であること、女であることを越え出ようとする、その年齢の生命の力を見事に描いた書き出しです。 この冒頭をお読みいただいただけでもお分かりだと思いますが、この小説の唯一の欠点は、この日記が、いつの時代であろうと15歳の人間によって書かれたとは信じがたい文章で書かれていることだと思います。 しかし、日記が語る書き手の姿は、悩みであれよろこびであれ、まさしく、みずみずしくさわやかで、15歳の少女そのものであるところに、この小説の書き手である野呂邦暢という夭逝した作家の並々ならぬ力量が躍如としていると思いました。 ゆっくり、時間をかけて読みすすめるにふさわしい作品だと思いましたが、中でも、この作品の中盤にあるホタルを巡る美しい描写の若々しさが印象に残りました。 佐賀藩の鍋島公の接待の席に、殿様から命じられたお役目で家中からお茶を点てる数人の、彼女と同年配の少女たちが呼び出され、無事お務めを果たした夜の日記の一部です。 それにしても私はいつ蛍を見たのであろう。茶道具をととのえるとき、少将様をお待ちしているとき、蛍など一匹も目に映じなかったようである。少将様が四面宮から慶巌寺へ移られたのち、私たちは道具をしまい、慰労として拝領した佐賀最中をふところに帰宅した。そのどこで蛍を私は見たのであろう。 淡い緑色の光を放つ点が、木立から草むらから漂い出し、墨色の闇をうずめる。綾様のえりくびで光る蛍もいたように思う。光る虫は宙にむらがり、ちらばるかと思えば一つによって、暗闇に大小さまざまな光をともしたかと思われた。きりもなく水面からわき出し、川辺を縦横無尽に飛びかい、水にそのかげをうつした。 帰ってから私は母上に少将様のご様子を申し上げることかなわなかった。おぼえているのは川原のそこかしこで息づくように点滅している青みがかった微光のかたまりのみである。お叱りをこうむらなかったのであるから、手落ちはなかったと思う。かりにいささかの手落ちがあっても、ほしいままに見た蛍どもの景観にくらべたらそれがなんであろう。私は青緑色に輝く光のなだれを全身であびたように感じた。母上は私がいただいた佐賀最中を仏壇にそなえられた。(P143~144) お上や大人たちが、家中の少女たちの大人の世界への顔見世として、その場をあつらえ、期待を込めて美しい着物を着せられ、化粧を施されてその場にいることは百も承知しているのです。しかし「少女」であり「娘」でもある視線は、緑色に点滅し、群がる「ホタル」の淡い美しい光を捉え、その光の明滅する淡々しい世界へ彷徨いこむかのように捉えられながらも、やがて我に返ってきて、頂き物の最中に思いを戻してゆく描写です。 いかがでしょう。初めて大人として振る舞うことを求められた少女の不安と、しくじらずに切り抜け、できれば評判をとりたい娘の緊張とともに、そこはかとなくユーモアまで漂わせている周到さで、思わず微笑みたくなる文章作法だと思いました。これは、とても15歳の少女の技ではありませんが、読み手を堪能させるには十分といって過言ではないでしょう。 小説作品の好みは人それぞれではありますが、群を抜いた傑作だと思いました。ただ、難点は著作集以外には、高価な古本しか入手方法がないことです。ある図書館にはあるようです(笑)。とりわけ、歴史小説のお好きな方には是非一度お読みいただきたいと思った作家でした。