トマーシュ・バインレプ ペトル・カズダ「私、オルガ・ヘプナロヴァー」元町映画館no173
トマーシュ・バインレプ ペトル・カズダ 「私、オルガ・ヘプナロヴァー」元町映画館 見ようか、やめようか、かなり迷いました。「これは、きっと、面倒くさいやつやな!」 最近、面倒くさい話が苦手です。 「銀行員の父と歯科医の母を持つ経済的にも恵まれたオルガ・ヘプナロバーは、1973年7月10日、チェコの首都であるプラハの中心地で、路面電車を待つ群衆の間へトラックで突っ込む。この事故で8人が死亡、12人が負傷した。 犯行前、22歳のオルガは新聞社に犯行声明文を送った。自身の行為は、多くの人々から受けた虐待に対する復讐であり、社会に罰を与えたと示す。 両親の無関心と虐待、社会からの疎外やいじめによって心に傷を負った少女は、自らを「性的障害者」と呼び、酒やタバコに溺れ、性的逸脱を重ね、精神状態は悪化していく。複雑な形の「復讐」という名の「自殺」を決行したオルガは、逮捕後も全く反省の色を見せず、75年3月12日にチェコスロバキア最後の女性死刑囚として絞首刑に処された。」 ネットの作品紹介にのっていた文章です。こんな話、面倒くさいに決まっているじゃないですか。でもね、チョットだけ気になったの、主人公の事件が起きたのが1973年と書いてあることなんです。ボク、この主人公と3歳ほどしか違わないんですよね。で、出かけてしまったんです、元町映画館(笑)。 観たのはトマーシュ・バインレプという人とペトル・カズダという人が、二人で監督をしているらしい映画「私、オルガ・ヘプナロヴァー」でした。 で、感想ですが、観る前に、あれこれ躊躇していたボク自身の予想は杞憂でした。タバコの吸い方が、たぶん、そう演出しているのでしょうが、最後までさまになっていなかったことが気になったことと、女性の同性愛の「性愛」(古ッ!)シーンに、さほど惹かれないで見ている自分のジジ臭さに気づいたこと以外、実にまっとうな作品だと思いました。「オルガは、あの頃のボク自身だ!」 とまでは言いませんが、描かれていく彼女の存在のありさまには、ほとんど違和感を感じませんでした。 主人公のありさまについて、映画の中でも統合失調症というような病名を持ち出して隔離、保護することが当然だという考え方があることをボクは否定も非難もしません。現実に、何のかかわりもない人間を殺している、その、殺人の当事者なわけですから、事件を未然に防ぐことは不可能だったのか、という視点で考えることは、ある意味で、普通のことです。しかし、映画を作った人は、その視点を捨てることを選ぶことによって、人間存在の普遍的な危うさを描くことに成功しているようにボクには見えました。 「孤独」という、ありきたりな言葉がありますが、人は本来「孤独」でしかありえないにもかかわらず、「孤独」ということについて、正面から見据えたり、考えたりすることを避けて生きています。 では、否応なく、それを見つめざるを得なくなった時、人はどうなるのか。どうすればいいのか。多分そんな問いがこの映画には漂い続けていて、オルガを演じていたミハリナ・オルシャンスカは、一人ぼっちの人間の過酷なさまを実に見事に演じ切っていたと思いました。 チラシの裏をご覧ください。それにしても、この険しい表情の少女が、実は、最後まで「他者」を求め続け、生きることを希求していた姿を映画は描いているとボクは思いました。ある種、露骨な性描写も、いつまでも吸いなれない喫煙も、自動車のぶきっちょな運転も、孤独の壁の乗り越え方を見つけられない少女の子供っぽい仕草の表現に見えて、なんともいえず哀切でした。生き続けていれば孤独地獄で罪悪感に苛まれるだけなのでしょうか。 たとえば「死刑」というような制度は本当に必要なのでしょうか。「やっぱりこの制度はやめたほうがいい。」 ボンヤリした思いですが帰り道、人通りの増えた元町商店街を歩いていると浮かびました。 二人ですが、監督の人間凝視のスタイルに拍手!でした。それから主演のミハリナ・オルシャンスカさん、表情だけでなく体を張った「孤独」の演技は見ごたえがありましたよ(笑)。拍手!ですね。監督 トマーシュ・バインレプ ペトル・カズダ原作 ロマン・ツィーレク脚本 トマーシュ・バインレプ ペトル・カズダ撮影 アダム・シコラ美術 アレクサンドル・コザーク衣装 アネタ・グルニャーコバー編集 ボイチェフ・フリッチキャストミハリナ・オルシャンスカ(オルガ)マリカ・ソポスカー(イトカ)クラーラ・メリスコバ(母親)マルチン・ペフラート(ミラ)マルタ・マズレク(アレナ)2016年・105分・チェコ・ポーランド・スロバキア・フランス合作原題「Ja, Olga Hepnarova」2023・06・19・元町映画館no173