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カテゴリ:映画 アメリカの監督
スパイク・リー Spike Lee 「ブラック・クランズマン」 シネリーブル神戸
サンデー毎日の徘徊老人にとって、今日が春休み最初の日曜日というのが盲点でした。徘徊を始めて、漸く一年という、まだ、まあクチバシの黄色いシマクマ君ですが、ついに映画館満席体験でした。 「おおー、苦手やこういうの!トホホ・・・。」 「スパイク・リーって『マルコムX』か、見てへんけど。おっ主演はデンゼル・ワシントンの息子やん。マルコムXの息子が、KKKに潜入捜査?うーん、スリルとサスペンスか?でもどうやって?」 そんな下調べを、ボンヤリ振り返って水筒のコーヒーなんどか飲みながら、ほっと一息ついていると、隣に座ったオニーさんコンビが、二人でポップコーンを食べ始めた。 「ヤレヤレ・・・」 南北戦争の敗北、大勢のけが人が横たわっている広場のシーンから映画は始まりました。 ワシントンjr青年が新米刑事になるのは、1970年代のコロラド州です。 「なるほど、そういうふうにそうなりますか。」 というふうな展開で、最後の最後までスパイク・リー怒りの鉄拳という感じでした。 「告発」とでもいうべき、意図が明確な作り方は嫌いじゃないのですが、プロパガンダ映画的なパターンがちょっと気にかかりました。彼は「グリーン・ブック」を批判したという話もあるそうですが、気持ちはわかります。 ぼく自身関していえば、さて、映画として、どっちが好みかというと、ちょっと考え込んでしまうけど、やはり、「グリーン・ブック」かなというかんじです。 ただ、映画を見ていて、一つ、興味深いことに気づきました。全くもって偶然なのですが、三宮行きの高速バスの中で読んでいたのがベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」だったんです。 ここで講釈を垂れるようで、まあ、申し訳ないのですが、アンダーソンは、この本でナショナリズムの成立に関して二つのポイントを指摘しています。 ひとつは、近代初頭の「プリント・キャピタリズム」(出版資本主義)の役割について。キリスト教圏だとラテン語に対して各国の世俗語出版の成立。日本だと、明治二十年以後の徳富蘇峰『国民之友』、三宅雪嶺『日本人』、陸羯南『日本』なんかの雑誌が果たした役割についてですが、これはこの映画とはあまり関係がありません。 ただ、もう一つのポイントが「クレオール・ナショナリズム」。ちょうど読んでいたこれが、この映画が描いている差別と抵抗の構造とぴったり一致したのだ。 「想像の共同体」の論旨は、宗主国に対する植民地ナショナリズムが生まれる議論をめぐるものなのですが、たとえば、日韓併合して宗主国ナショナリズムを押し付けた日本に対する朝鮮の人たちとか、イギリスに対して、ボストン茶会事件を契機に独立するアメリカとか、スペインに対する南米諸国とかが例としてすぐ思い浮かぶのですが、そこには植民地独特の抵抗とナショナルな共同体生成の言語文化が介在していたということです。 この映画でKKKは、排斥するユダヤ人を割礼によって見分けようとしていました。ユダヤ教共同体の宗教的慣習が、反キリスト教的なスティグマ(身体的刻印)とみなされ、キリスト教共同体の、そして良きアメリカ人の代表だと勝手に自任しているKKKによって標的化されているのです。 「では黒人は?」というと、まず肌の色が、白くはないという理由で、端的に攻撃の対象となっています。しかし、もう一つ、この映画が描いたのが「声」だったという所にスパイク・リーの慧眼を感じました。 「クイーンズ・イングリッシュ」に対して、「アメリカン・イングリッシュ」で独立を勝ち取り「想像の共同体」=「俺たちの国」を作り上げ、「アメリカ人」という自意識を作り出し、そこに生まれた「ナショナリズム」=「アメリカ・ファースト」に酔っている人々に「アフリカン・アメリカン・イングリッシュ(?)」がどう響いているかという、「アメリカ人」の内面に対する「告発」を、物語のメインプロットにしつらえた技には目を瞠りました。大したものだとおもいました。 ボクの耳にも聞き分けられる「アフリカン・アメリカン・イングリッシュ(?)」の痛快な罵倒を最後に映画は終わりました。 残念だったのは、黒人解放の演説や弾けるようなシュプレヒコールと、KKKの最悪な差別演説が、声の対照性によって描かれているに違いないことが、哀しいかな、英語のわからない耳には聞き取れなかったことです。 ポップコーンを、最後まで食べ続けていたコンビが出ていくのを待って立ち上がりました。 劇場を出ると、警察官が先導した春闘のデモでしょうか、東に向かって、ゼッケンをつけた人たちが歩道を歩いていました。 曇っていた天気は、青空に代わっていましたが、何だかやるせない気分で、兵庫駅まで歩きました。駅前のベンチに座ってコヒーを飲んでいると、不意に、中山ラビの「十三円五十銭」という歌が浮かんできました。 なつかしいけど、かなしい歌です。この歌を今でも聴く人はいるのだでしょうか。40年前に暗い下宿で何度も繰り返し聴きました。今でも歌えます。 監督 スパイク・リー Spike Lee 製作 ジョーダン・ピール 脚本 チャーリー・ワクテル デビッド・ラビノウィッツ ケビン・ウィルモット スパイク・リー 撮影 チェイス・アービン 美術 カート・ビーチ 音楽 テレンス・ブランチャード キャスト ジョン・デビッド・ワシントン(新米刑事ロン・ストールワース) アダム・ドライバー(刑事フリップ・ジマーマン ) ローラ・ハリアー(女子大生活動家パトリス・デュマス) トファー・グレイス(KKKの親分デビッド・デューク) ヤスペル・ペーコネン(KKKフェリックス) コーリー・ホーキンズ(黒人指導者クワメ・トゥーレ) ライアン・エッゴールド(刑事ウォルター・ブリーチウェイ) ポール・ウォルター・ハウザー(KKKアイヴァンホー) アシュリー・アトキンソン(KKKコニー(KKK) 原題 「BlacKkKlansman」 2018年 アメリカ 135分 2019・04・13シネリーブル神戸 no1 追記2021・11・04 在日の女性作家が参政権がないことをつぶやくと、寄ってたかって「ヘイト」する人がいることを偶然目の当たりにして、この映画を思い出しましたが、たいがいにした方がいい社会意識が蔓延していることに、ぼく自身も、もう少し気付いた方がいいことを実感した「選挙」でした。 表向きには「四民平等」が正しいはずの社会なのですが、差別と暴力が蔓延し始めているのではないでしょうか。ちょっと。恐ろしい様相ですね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.08.08 22:14:54
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