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カテゴリ:読書案内「日本語・教育」
「2004年《書物》の旅 (その9)」
中西進「ひらがなでよめばわかる日本語」(新潮文庫)・松岡正剛「白川静」(平凡社新書) 中西進という人は、今となっては昔のことですが、朝日新聞の夕刊紙上で「万葉こども塾」という子ども向けのコラムを連載していた「万葉集」研究の大先生ですね。 一方、人や本の紹介者として驚異の博覧強記男、編集工学の松岡正剛が論じている白川静は漢字研究の大家。一般の人に「常用字解」(平凡社)という「字書」が評判になったのが2004年。 この案内を初めて、高校生に向けて書き始めて、最初に案内した本が「常用字解」でした。もう十数年も昔のことですが、当時、入学したばかりの一年生に《高校の入学祝で、もしも買う人がいて、ずっと大切に使って、読んでくれたらいいなと思う。》と紹介しましたが、その、白川静は既にこの世の人ではありません。 高校や中学校で国語の先生をしようと考えている人には、一度は手にとってもらいたい「字書」です。先ほどから「字書」と書いていることに「あれっ?」と思って出会ってほしい辞書です。 使ってみるとすぐに気づきますが、この字書は不思議なことに難しい漢字はひとつも載っていません。誰でも知っている常用漢字が載っているだけなのです。それはなぜなのか、それが松岡正剛「白川静」のメインテーマだといっていいでしょう。 松岡の「白川静」によれば、漢字本来の姿に如何に迫るか、失われた文字や言葉の起源を如何にたどるか。そう考えた白川静が中国の古代社会を読み取るために重要視したのが「万葉集」だそうです。 「万葉集」には中国でいえば漢字が生まれてきた時代の社会の姿が、中国から見れば辺境の地、列島の社会の姿として残されているはずだと白川さんは考えたというのが松岡正剛の説明です。柳田國男の方言周圏論なんかの考え方と共通しているかもしれません。 漢字を知るために中国のもっとも古い詩集、「詩経」を読み、「詩経」を読むために「万葉集」を読む。そこには中国の古代を、日本の古代を読み解くことによって知ろうとするという、意表をつく学問観があり、その結果、万葉仮名解読が漢字解読をたすけ、漢字理解が万葉理解を深めたというのです。 ここに白川静と中西進をつなぐ鍵になる「万葉集」が浮かび上がってきます。 中西進のこの本は、私たちが当たり前の言葉として使っている、「め」とか「みみ」といった身体にまつわる言葉から、「いわう」「まつる」「あそび」といった言葉を神とともあった古代の人々の暮らしにさかのぼり語っています。 日常の言葉の中に古代の世界が宿っていることを教えてくれる本です。 たとえば「あそび」という言葉について中西はこんなふうにいいます。 平安時代に遊ぶといえば音楽の演奏を意味したことは知っていますね。では、なぜ遊ぶことが音楽を奏することとつながるのでしょう。 この論理展開は白川静の漢字解読とみごとにシンクロしています。言葉や文字には、それを生みだしてきた人間の暮らしが宿っており、そのかけらのような言葉や文字の中に残されている古代の人間を想像する強靭な空想力が二人に共通しているのです。白川静、中西進。いつか、この二人の世界にあそんでみてください。(S) 2018/11/26 追記 2019-04-14 先日新しい元号が発表され、ここで取り上げた中西進が深くかかわっていたニュアンスが広報されています。ぼくは元号を必要だとする国家観に疑問を持っていますが、それとは別の意味で、これは、なにかおかしいと感じたことがあります。 というのは中西進がどこかのカルチャー講座で「令」という字は「美しい」という意味だと論じたとテレビニュースで報じられたからです。 白川静の「字統」によれば、「令」とは装束を整え神の声を聴く形です。ここから「美しい」に意味を変えるためには、どうしても神の声の崇高さを持ってくるしかないのではないでしょうか。漢文訓読では代表的な使役の助字への使用も、そのルートでしょう。 二文字の組み合わせで元号化すると、どうしても熟語として読みたくなりますが、本来、熟語的、つまり漢語的意味がない言葉を固有名詞化する無理と、万葉集中での一例に過ぎない意味を普遍化する無理。 「中西さん、少し無理筋を押していませんか。」 それがぼくの感想でしたが、白川静が生きていたらなんというか、少し寂しい中西進の映像でした。 「2004《書物》の旅」その1は金城一紀「GO」。こちらからどうぞ。 追記 ボタン押してね! ボタン押してね! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.05.24 23:52:35
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