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カテゴリ:読書案内「日本語・教育」
大村はま「教えるということ」(ちくま学芸文庫)
ぼくたちの世代、要するに昭和の終わりかけに国語の教員になったくらいの人たちにとって、「つづり方教育」の国分一太郎や「山びこ学校」の無着成恭らと並んで「国語の教員像」の理想として、戦前から戦後を通じての実践者として輝いていた人たちですが、高度経済成長の時代が思い出になる中で「これでおしまい」とでもいうように忘れられていった教員の一人が大村はまという人だと思います。 残念ながら、ぼく自身は教員生活を終えて初めてその文章に接するといった具合で、これから教員になろうかという人たちに対してこれはいいよとばかりに推薦する資格はかけらもない。 まあ、そういうわけなのだけれど、毎週出会う大学生の皆さんが、教員になりたいと思っていらっしゃる、どんな本をお読みになればいいだろうというのが最近の僕の選書の基準の一つになっているわけで、それで手に取ったのが、大村はまの「教えるということ」(ちくま学芸文庫)でした。 2002年に99歳で亡くなっているひとだけれど、筑摩書房の学芸文庫の編集部は「教室を生き生きと」とか「日本の教師に伝えたいこと」という彼女が残した文章を、次々と、新たに文庫化しています。 ぼくは「教えるということ」以外はパラパラとしか読んでいませんが、現在の現場、まあ、学校ですが、のことを考えると再刊して読んでほしいと考える編集者や教育学者、教員がいることに「そりゃあそうだろう」と肯くものがあります。 ぼくにしてからが、高校生で教育学部を目指すような人たちのために図書館の書架にそろえて、借りてくれる生徒を、いや、教員も、かも、を、心待ちにしていたのですから。 みなさんはまだしばらくしかお勤めになっていないから、そういうことをお思いにならないでしょう。私は中学校にいてじっと子どもを見ていますと、非常にすぐれたほれぼれするような力を持った子がいます。私はときどき子どもといっしょにいながら、「同じ年だったら、この人に友だちになってもらえるかしら」と思うことがあります。「教えること」という本に収められている、同じ題の講演の一節です。短い引用ですが、ここに大村はまという、その時代に生涯教員であり続けた女性の「性根」のようなものを、ぼくは感じました。 それは、「おっしゃっていることはよくわかりますが、少し離れたところで聞いていないと、ちょっと暑苦しいんですが」とでもいう感じ。おそらく、語りかたと時代の空気に、その秘密があるのだと思います。 この案内が、ノリノリの気分ではないのは、そこが理由です。しかし、論旨は正しい。ぼくにとっては、長くつとめた仕事について、強制的に反省を促すようなところがあって、面倒くさいのですが、今から、この仕事をやる人は、何年もの経験の中で、きっと「あの人があんなことを言ってたよな」というふうに思いだすに違いない言葉が、これらの本にはあると思います。 「卒業生がいつでも先生、先生と慕ってくれるのが、なによりもうれしい。」とか、「そういうとき、先生ほど楽しい職業はないと思う。」とかいうことばを聞くことがあります。 ねっ、ムキになって言いつのっているところが、やっぱり暑苦しいのですが、職業としての教員の肝というか覚悟というかが宣言されていて爽快です。おそらく、多くの卒業生や教え子たちが彼女のことを「忘れられない」と思ったに違いないし、「何か言ってきた」に違いないのですが、仕事を支える梃子を、そこに求めることをきっぱりと拒否する態度は、ちょっとかっこいいと思いませんか。 偶然、教室で出会い、「教える」ということのその場限りの可能性に真摯に向かい合おうとしたに違いない、教員、大村はまの面目躍如というべき言葉だとぼくは思いました。(S) 2018/06/05 追記2019・04・16 その後、知人から「大村はまさんの『優劣のかなたに』という詩がいいですね。」という言葉をいただいた。彼女も長く教職にある人だ。 『優劣のかなたに』 大村 はま お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.01.11 23:11:28
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