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夏目漱石 「門」 (新潮文庫) 「漱石の登場人物はまじめすぎてついていけない。」 まあ、そんなふうにおっしゃる人がいらっしゃるようですが、こと、題名に関してはマジメなのかどうか(笑)。 最近の小説家で「雑誌に掲載するのに少し長すぎるのですが。」という編集者に対して「じゃあ、適当に切ってください。」という返事をする人がいるそうです。「カンバセイションピース」(新潮文庫)とか、「明け方の猫」(中公文庫)とか、「未明の闘争」(講談社文庫)とか、ボクとしてはオススメの作品を書いている保坂和志という人なのですが、まあ、不思議な人が昔も今もいるもんだと思います。 さて、「門」ですね、。主人公は、前作「それから」の主人公「代助」の、その後の姿を描ているという説がありますが、友人の恋人であった女性を奪って、一緒に暮らしてきた中年の男です。一人の女性をめぐる三角関係の勝者の話というわけですだ。名は野中宗助、細君の名は御米(およね)です。 で、話はこんなシーンから始ります。
青空です。 「青いなあ、まぶしいなあ。」 もちろん、話しかける相手なんて、誰もいません。独り言です。もう一度見上げると、もう、ほっとした気分が戻ってきて、じっと見入りなおします。長く見上げていると、やはりまぶしい。 宗助が見上げた青空が、まあ、季節は違うのかもしれませんが、そんなふうに見えることもあるということを、ぼくは、この年齢にまで知りませんでした。 小説はこんなふうに続きます。 宗助は仕立おろしの紡績織の背中へ、自然(じねん)と浸(ひた)み込んで来る光線の暖味を、襯衣の下で貪ぼるほど味いながら、表の音を聴くともなく聴いていたが、急に思い出したように、障子越しの細君を呼んで、「御米、近来の近の字はどう書いたっけね」と尋ねた。細君は別に呆れた様子もなく、若い女に特有なけたたましい笑声も立てず「近江のおうの字じゃなくって」と答えた。「その近江のおうの字が分らないんだ」 細君は立て切った障子を半分ばかり開けて、敷居の外へ長い物指を出して、その先で近の字を縁側へ書いて見せて、「こうでしょう」と云ったぎり、物指の先を、字の留った所へ置いたなり、澄み渡った空を一しきり眺め入った。 日向ぼっこをしている夫と縫い物をしている妻。なんともいえないのどかな、中年の夫婦の様子が描かれています。なんでもないことがふと分からなくなるような、しかし、笑って終わる話です。縁側で青空を見上げながら、独りごちるように話しかける宗助の後ろには、うつむきながら裁縫をしている御米が座っています。秋の日ざしが、座敷に座っている御米の膝のあたりまで差し込んでいます。その陰影が、小さな庭の垣根越しに見えるシーンのように目に浮かんできます。 小説を読み終えると、このシーンがじっと尾を引いてくるおもむきがあります。街の中を歩いていて、見たこともないこの二人のシーンが浮かぶことが、時々あります。夢を見ているわけではありません。長い間に、何度か読みなおして、こうして引用していても、涙がこぼれそうになるのはぼくだけなのでしょうか。 小説はこんなシーンで終わります。 御米は障子の硝子に映る麗かな日影をすかして見て、「本当にありがたいわね。ようやくのこと春になって」と云って、晴れ晴れしい眉を張った。宗助は縁に出て長く延びた爪を剪りながら、「うん、しかしまたじき冬になるよ」と答えて、下を向いたまま鋏を動かしていた。 秋から春へ移り変わった季節の中で、小説の登場人物たちには体何があったのでしょう。 小説の最後の、このシーンで、春の光に眉を開いて季節の歓びを口にする御米に対して「またじきに冬になるよ」とうつむいたまま答える宗助の、ちぐはぐな言葉に出会うぼくの中には、、身ごもった子どもを次々と失った妻の哀しい心持や、過去の影におびえる夫の気弱な煩悶の記憶が呼び返され、淡淡とした哀しみとなって広がっていきます。で、涙がこぼれそうになります。 2018/10/13 追記2019・11・21 ボタン押してね! にほんブログ村 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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