山形孝夫 「黒い海の記憶」(岩波書店)
東日本大震災2011・3・11。あれから8年の歳月がたちました。神戸に住むぼくの記憶の中には1995・1・17という、もう一の節目があります。あれからは24年の歳月がたちました。
阪神大震災の記憶は、不思議なことに古びません。いくつかの印象的な記憶の塊のようなものがあって、年月がたつこととは関係なく夢の中とか、ボンヤリとした物思いの中で浮かんできます。「恐ろしい」とか、「辛い」とか、ことばで説明できる記憶としてではありません。
大体、ぼく自身はそれほど切実な体験にさらされたわけではありませんし、長田区の真ん中にあった勤務先は「全壊立ち入り禁止」の黒いステッカーが貼りまくられた学校だったのですが、まったく想定外の現象に対して陽気な観察者のような気軽さで震災の日々を過ごしていたように感じます。
一ヶ月ほどの休校期間を過ぎて登校した生徒たちの表情もおおむね明るく、被害の「ものすごさ」を自慢しあうような被災者ハイぶりで、閉じ込められた高層マンションからの脱出術や、水くみや食料配達といった、避難所のボランティアの経験を語り合っていました。それを笑って聞くのが僕の仕事だったわけです。
しかし、数年後に転勤した郊外の学校での授業中、震度3程度の地震に4階の教室が揺れ始めた時に、震災当時小学生だったはずの高校生が泣き叫ぶのを前にして、ぼくの中で、いわばがふつふつと湧き上がるのに気づきました。以来、記憶の意味が変わりました。風化が止まったといってもいいのかもしれません。
あれから二十五年、ぼくは還暦を通り越し、あの時の高校生たちは不惑の年を迎えようとしています。
最近読んだ「黒い海の記憶」(岩波書店)の中で山形孝夫はこう書いています。 私たちは、3・11大震災まで、近代日本の合理的で安全な国民国家に住んでいると思っていた。そこでは、生活のあらゆる領域に合理性と安全性が行き渡り、それが政治・経済のシステムを法的に支え、政教分離や福祉・教育行政の専門技術化とあいまって、市場の透明性を支えている。その限り、過去における不合理な政治神話とシステムは一切排除され「国民」の等質性と「国家」の透明性が保障された安全で、平和な国土に暮らしていると思っていた。
3・11の黒い海がその真相を暴露した。近代国家は「国益」の名のもとに「国民」を教育し、動員し、それに反対する者を排除し、抑圧する装置として機能していた。
近代資本主義は、市場の自由化と透明性を旗印に、激烈な競争によって生じる富の分配の不公平を隠蔽し、正当化してきた。その矛盾がバブル崩壊以降、経済的格差として現れた。
この格差を、国家はこれも市場の透明性を理由に、正規職員と非正規職員に区分し、逆に支配の道具として使用してきた。要するにシステムの矛盾を犠牲者の自己責任に転嫁することによって、日本国家はシステムの強化と権力の正当性を維持し続けてきたのである。
原発安全神話が新興宗教の呪術的救済神話と似ているのは、決して偶然ではない。
それは、近代的な進歩史観や技術優先の効率主義のシステムの中で精巧かつ巧妙に構築された聖なる物語であり、貧困からの解放を告知する救済のシナリオであったのだ。安全神話が近代国家の象徴的な物語であるのは、その背後に、自作自演の「犠牲」の寓話を隠し持っているからである。
ここまでが、ぼくたちが日本はいい国だとかいっている近代社会の正体に対する分析です。
ここからが、おそらく本物の宗教学者である山形孝夫の真骨頂だと思います。
犠牲とは、本来供犠に通じる宗教人類学の用語であるが、もともとは神の祭壇に捧げる生贄をさす。個人もしくは共同体が、自らの所有物を犠牲にしたり、場合によっては自己自身を犠牲として祭壇に捧げ、そのことによって神の保護を獲得しようとする呪術的行為である。
ここで問題なのは、神聖化されるのは単に犠牲者だけでなく、犠牲を要求する主体も、ともに神聖化されるという点にある。渡すたちは近代国民国家と資本主義が、国益という名のもとに、こうした犠牲のシステムと一つに手を結んでいることに敏感でなければならない。
その中核に位置を占めるのが原発安全神話なのである。そうした神話の欺瞞を黒い海は暴露した。
ぼくはここで、二つのことに思い当たります。
一つは阪神大震災における多くの犠牲者や、今も存在し続けている犠牲はどうなったかということです。
二十年以上たつということが、出来事を歴史化してしまうということは、たしかにあるのです。その中で「忘れない」ということが、墓碑やモニュメントの前に頭を垂れることではすまされない、積極的な何かを生み出す契機になることは出来ないかということです。
もう一つは、ここ数年来ブーム化している、戦争下での特攻死の美化についてです。
兵士たちの犠牲的な死を美化することが、いつのまにか、戦争をした国家の美しい神話化へとすり替えられ、新しく育っている子供たちの意識を、ねつ造された歴史意識へと歪めはじめているとのではないかという現代的な状況についてです。
「黒い海」や「黒い街」は、ぼくたちの存在の根のようなところに、言葉にならない記憶として残ります。国家や資本主義のシステムは、それを美化することで欺瞞の神殿を作り上げようとしているかに見えます。本当の信仰は、その欺瞞を見破るところから始まるのです。山形孝夫の文章はそう語りかけているのではないでしょうか。
ぼくは宗教を信じるものではありませんが、山形孝夫の主張の論旨には共感します。現実の新しい経験を検証し続けるところに記憶は生き続けるのでしょう。「忘れない」ということは能動的な行為なのです。(S)
追記2019・11・25
原子力発電所の建設や推進事業が、近代社会のが追い求め来た気「進歩」への夢の素朴な現実化など絵はなかったことが、少しづつ暴露されている。
関西電力の社長をはじめとする責任者だけではない、福井県の職員たちも、数十人(?)いや、百人を超えて(?)、原発還流資金と呼ばれる賄賂を手にしていたことが報道されている。
「なぜ受け取ったか?」
「怖かったから。」
このような関電の責任者の発言は「大人」のことばとは、到底思えないのだが、恐喝の被害者を装うことで、犯罪者としの告発から逃れたい言い訳としても、本当は成り立っていないのではないだろうか。まさに「近代国民国家と資本主義が、国益という名のもとに、こうした犠牲のシステムと一つに手を結ぶ」中で育ってきた「ヤクザの思想」が、ぼくたちの税金や電気料金を食い荒らしている。
事故が起きれば、想定外と開き直り、もう一度税金を投入することで、その場を収めるのだから、責任主体がどこにもいない「国家事業」として、先の戦争と、全く同じ構造と言って過言ではなさそうだ。
ぼくたちにできることは「神話の欺瞞」をまじめに考え始めることではないだろうか。
追記2020・02・09
福島の除染土や汚染水は、結局処理に困って海や工事用の土砂としてバラまくのだそうで、「そうなんだ」とあきれていると、四国の原子力発電所では40分を超える電源喪失事故が報告もされていなかったという報道が聞こえてきた。そういえば、関電の重役がわいろを受け取っていたニュースもあった。実際に「想定外」と責任を逃れた人たちは、何の反省もしていないのだろうか。
ウンザリしている日々なのだが「チェルノブイリの祈り」の著者の「戦争は女の顔をしていない」がマンガ化されたのを見て、少しだけ気が晴れた。「チェルノブイリの祈り」も漫画にしてほしいものだ。
追記2020・08・29
先日見た「れいこいるか」という映画の登場人たちが、4階の教室で泣き叫んだ、あの時の高校生とダブって見えました。映画は、まあ、言ってしまえばへんてこな映画だったのですが、「こころ」のどこかに「ことば」にならない「悲しみ」や「不安」を抱えながら暮らすのが、普通の暮らしなのだということを強く感じました。
新長田の「鉄人28号」には、ヤッパリ、「ごくろうさん!」と声をかけたいものですね。
「れいこいるか」の感想はこちらからどうぞ。ああ、それから「鉄人28号」はこれです。
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